信長公記
太田牛一著
巻六(元亀四年癸酉)(一部)
赤字は本文(『風の呪殺陣』徳間文庫版183p)引用箇所です。
阿閉謀叛の事
八月八日、江北阿閉淡路守、御身方の色を立て、則ち、夜中、信長御馬を出だされ、其の夜、御敵城つきがせの城、あけのき候なり。
八月十日、大づくの北、山田山に悉く陣とらせ、越前への通路御取切り候。朝倉左京大夫義景、後巻として、二万ばかり罷立ち、与語・木本・たべ山に陣取り候。近年、浅井下野守、大づくの下、やけをと云ふ所こしらへ、浅見対馬を入れ置き候。是れ又、阿閉淡路と同心に御身方の色を立て、御忠節とし、
八月十二日、大づくの下、やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ候。其の夜は、以外の風雨に候と雖も、虎後前山には信長公の御息嫡男勘九郎殿を置き申され、信長、雨にぬれさせられ候て、御馬廻召しつれられ、太山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、既に乗り入るべきところ、越前より番手として、斎藤・小林・西方院、三大将の人数五百ばかり楯籠り、色々降参仕り候。尤も討ち果たさるべき事に候へども、風雨と云ふに、夜中、大づく落去の体、朝倉左京大夫存知せられ間敷候の間、此の者ども命を助け、敵陣へ送り遣はされ、此の表抱へがたき仕合せ、敵の勢衆に知らせ、其の上、朝倉左京大夫陣所へ打ち向けられるべきの御存分にて、右籠城の者、適所へ送り遣はさる。大づくには、塚本小大膳、不破河内・同彦三、丸毛兵庫・同三郎兵衛入れ置かれ、直ちに又、ようの山、信長御取り懸け候。平泉寺の玉泉坊番手として楯籠り候。是れも御詫言申し、罷退く。然らば、信長御諚には、必定、今夜、朝倉左京大夫退散すべく候。先手に差し向け候衆、佐久間右衛門、柴田修理、滝川左近、蜂屋兵庫頭、羽柴筑前、丹羽五郎左衛門、氏家左京助、伊賀伊賀守、稲葉伊予、稲葉左京助、稲葉彦六、蒲生右兵衛大輔、同忠三郎、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀新左衛門、弓徳左近、阿閉淡路、同孫五郎、山岡美作守、同孫太郎、山岡玉林、此の外歴々の諸卒、爰をのがし候はぬ様に覚悟仕るべきの旨、再往再三仰せ遣はさる。其の上、御いらでなされ、十三日夜中に越前衆陣所へ、信長又、御先懸なされ、懸け付けられ候。然れども、度々仰せ遣はされ候御先陣にさし向け候衆、油断候て、信長の御先懸なされ候を、承り候て、御跡へ参られ候。地蔵山を越え候て、御目にかゝり候へば、数度仰せ含められ候に、見合せ候段、各手前の比興、曲事の由、御諚候ところに、信長へこされ申し、面目も御座なきの旨、滝川、柴田、丹羽、蜂屋、羽柴、稲葉、初めとして、謹んで申し上げられ候。佐久間右衛門、涙を流し、さ様に仰せられ候へども、我々程の内の者は、もたれまじくと、自讃を申され候。信長御腹立ち斜ならず、其の方は、男の器用を自慢にて候か。何を以ての事、片腹痛き申し様哉と、仰せられ、御機嫌悪候。御分別の如く、朝倉左京大夫義軍癈軍候を、討ち取り、頸ども、我も/\と持参候。此の時、御馬にめし御出だし候。中野河内口、刀根口二手に罷り退き候。何方へ付き候はんやと、相支へ、僉議区に候ところに、信長御諚には、引檀・敦賀の身方城を心懸け、退くべく候間、引檀口へ人数を付け候へと、御諚候。妙案なり。中野河内口へは雑兵を退け、朝倉左京大夫、名ある程の者どもを召し列れ、敦賀をさしてのがれ候。頓て、刀根山の嶺にて懸け付け、心ばせの侍衆、帰し合ひ/\、相支へ、塞ぎ戦ひ候へども、叶はず、敦賀まで十一里、追ひ討ちに、頸数三千余あり。注文、手前にて見知の分、朝倉治部少輔、朝倉掃部助、三段崎六郎、朝倉権守、朝倉土佐守、河合安芸守、青木隼人佐、鳥居与七、窪田将監、詫美越後、山崎新左衛門、土佐掃部助、山崎七郎左衛門、山崎肥前守、山崎自林坊、ほそろ木治部少輔、伊藤九郎兵衛、中村五郎右衛門、中村三郎兵衛、中村新兵衛、金松又四郎これを討ち取る。長島大乗坊、和田九郎右衛門、和田清左衛門、引檀六郎二郎、小泉四郎右衛門、濃州龍興、印牧弥六左衛門、此の外、宗徒の侍数多討死す。爰に、不破河内守が内の原野賀左衛門と申す者、印牧弥六左衛門を生捕り、御前へ参り候。御尋ねに依って、前後の始末申し上ぐるのところ、神妙の働き、是非なきの間、忠節致し候はば、一命を御助けなさるべしと、御諚候。爰にて、印牧申す様に、朝倉に対し、日比遺恨深重の事と雖も、今、此の刻、歴々討死候ところに、述懐を申し立て生残り、御忠節叶はざる時は、当座を申したるとおぼしめし、御扶持もこれなく候へば、実儀も、外聞も、見苦しく候はんの間、腹を仕るべしと、申し乞ひ生害。前代未聞の働き、名誉、是非に及ばず。同日、落城の数、大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、引檀、敦賀、志津が嵩、若州栗屋越中所へさし向け候て、付城共に、拾ケ所退散。
さる程に、信長、年来、御足ながを御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて、金松又四郎、武者一騎山中を追ひ懸け、終に討ち止め、頸を持参候。其の時、生足に罷り成り、足はくれなゐに染めて参り候を御覧じ、日比御腰に付けさせられ候御足なが、此の時御用に立てられ候由、御諚候て、金松に下さる。且は、冥加の至り、面目の次第なり。信長公、御武徳両道御達者の故、案の内の大利を得させられ、十四日、十五日、十六日、敦賀に御逗留。所々の人質執り固め、十七日、木目峠打ち越え、国中へ御乱入。
八月十八日、府中龍門寺に至って、御陣を居えさせられ、朝倉左京大夫義景、我が館一乗の谷を引き退き、大野郡の内、山田庄、六坊と申し候所へのがれ候、さしも、やむごとなき女房達、興車は名のみ聞きて、取る物も取り敢へず、かちはだしにて、我先に/\と、義景の跡をしたひて落ちられたり、誠に、目も当てられず、申すは中々愚かなり。然るところに、柴田修理亮、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守を初めとして、平泉寺口へ義景を追ひ懸け、御人数差し遣はされ、其の上、諸卒手分けをして、山中へ分け入りて、さがし候へと、仰せ出だされ、毎日、百人弐百人宛、一揆ども、龍門寺の御大将陣へ括縛、召し列れ参り候を、御小姓衆に仰せ付けられ、際限なく討たせられ、目もあてられざる様体なり。爰に、野仁の者ども、けだかきかと有る人と見えたる女房の、下女をもつれ候はで、唯一人これあるを、さがし出だし、五、三日いたらぬ奴原止め置き候ところに、或る時、硯をかりて、はな紙の端に書き置きをして、たばかり出で、井戸へ身をなげ、果てられ候。後に、人/\是れを見れば、此の歌なり。
- ありをればよしなき雲も立ちかゝるいざや入りなむ山のはの月
と、一首を書き置き、此の世の名残是までなり。見る人、哀れに思ひて、なみだをながさずと云ふ者なし。平泉寺の僧衆、御忠節仕るべきの由に候て、人数を出だし、手を合せ、朝倉左京大夫義景、遁れがたき様体なり。
爰に、朝倉同名に、式部大輔と申す者、情なく、義景に腹をきらせ、鳥井与七・高橋甚三郎介錯を致し、両人の者も追腹仕り候。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に候。朝倉式部大輔、義景の頸を府中龍門寺へ持たせ越し、八月廿四日、御礼申さる。名字の総領と云ひ、親類と云ひ、前代未聞の働きなり。義景の母儀、並びに、嫡男阿君丸を尋ね出だし、丹羽五郎左衛門に仰せ付けられ、生害候なり。さて、国衆縁々を以て、帰参の御礼、門前市をなす事に候。則ち、義景が頸、長谷川宗仁に仰せ付けられ、京都へ上せ、獄門に懸けさせられ、越前一国平均候間、国中の掟を仰せ付けられ、前波播磨守、守護代として、をかせられ、
八月廿六日、信長公、江北虎後前山まで御馬を納めらる。
八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ取り上り、浅井下野・同備前父子の間を取り切り、先ず、下野が居城を乗っ取り候。爰にて、浅井福寿庵、腹を仕り候。さる程に、年来目を懸けられ候鶴松大夫と申し候て、舞をよく仕り候者にて候。下野を介錯し、さて其の後、鶴松大夫も追腹仕り、名与是非なき次第なり。羽柴筑前守、下野が頸を取り、虎後前山へ罷り上り、御目に懸けられ候。翌日、又、信長、京極つぶらへ御あがり候て、浅井備前・赤生美作生害させ、浅井父子の頸京都へ上せ、是れ又、獄門に懸けさせられ、又、浅井備前が十歳の嫡男御座候を、尋ね出だし、関ヶ原と云ふ所に張付に懸けさせられ、年来の御無念を散ぜられ訖んぬ。爰にて、江北浅井が跡一職進退に、羽柴筑前守秀吉へ、御朱印を以て下され、悉く面目の至なり。
九月四日、信長、直ちに佐和山へ御出でなされ、鯰江の城攻め破るべきの旨、柴田に仰せ付けられ候。則ち、取り詰め候ところ、佐々木右衛門督降参候て、退散なり。何方も御存分に任せらる。
九月六日、信長公、岐阜に至って御帰陣。
さる程に、杉谷善住坊、鉄砲の上手にて候。先年、信長、千草峠御越えの砌、佐々木承禎に憑まれ候て、山中にて、鉄砲二玉をこみ、十二、三間隔て、無情に打ち申す。されども、天道昭覧にて、信長の御身に少し宛打ちかすり、鰐の口御遁れ候て、岐阜御帰陣候ひき。此の比、杉谷善住坊は、鯰江香竹を憑み、高島に隠居候を、磯野丹波召し捕へ、九月十日、岐阜へ、菅屋九右衛門・祝弥三郎両人御奉行として、千草山中にて鉄砲を以て打ち申し候子細を御尋ねなされ、おぼしめす儘に、御成敗を遂げらる。たてうづみにさせ、頸を鋸にてひかせ、日比の御憤を散ぜられ、上下一同の満足、これに過ぐべからず。
九月廿四日、信長、北伊勢に至りて御馬を出だされ、其の日は、大柿の城に御泊。廿五日、太田の城、小稲葉山に御陣取り。江州衆は、はつふ、おふぢ畑越えにて、廿六日、桑名表へ人数打ち出だし、西別所に一揆楯籠り候を、佐久間右衛門・羽柴筑前守・蜂屋兵庫頭・丹羽五郎左衛門四人として、取り懸け、責め破り、数多切り捨てられ候。柴田修理・滝川左近両人は、さか井の城、片岡と云ふ者の構へ取り巻き、攻められ候のところ、降参申し、十月六日、退出、右両人直ちに、ふかやべの近藤の城取り懸け、かねほりを入れ、攻められ、是れも御詫言申し、罷り退く。
十月八日、信長、東別所へ御陣を寄せさせられ、これに依り、いさか、かよふ、赤堀、たなべ、桑部、南部、千草、長ふけ、田辺九郎次郎、中島勘解由左衛門、何れも、人質進上候て、御礼申し上げ候。爰に、白山の中島将監、御礼に罷り出でず候。然る間、佐久間、蜂屋、丹羽、羽柴、此の四人を仰せ付けられ、築山を築き、かねほりを入れ、攻められ候。抱へがたく存知、此の上にて御侘言申し、退散。
さる程に、京都静原山に楯籠りし御敵、山本対馬、明智十兵衛調略を以て、生害させ、頸を北伊勢、東別所まで持ち来たり、進上。御敵をなす者、悉く御存分に属し、御威光申すにも足らず。北伊勢一篇に罷りなり、河内長島も過半相果て、迷惑仕るの由に候。矢田の城、御普請丈夫に仰せ付けられ、滝川左近入れ置かる。
十月廿五日、信長、北伊勢より御馬を納められ、左は多芸山、茂りたる高山なり。右手は入川足入り多くありて、茂りたる事、大方ならず。山下に道一筋めぐりまはって、節所なり。信長、のかせられしを見申し、御跡へ河内の奴原、弓・鉄砲にて、山/\先/\へ移りまはり、道の節所を支へ、伊賀・甲賀のよき射手の者ども馳せ来たりて、さしつめ引きつめ、散/\に討ちたをす事、際限なし。雨つよく降りて、鉄砲は互ひに入らざる物なり。爰に越前衆の内、毛屋猪介、爰にては支へ合せ、かしこにては扣き合ひ、数度の働き比類なし。信長公の一の長、林新次郎を残し置かれ、数度追ひ払ひ、節所のつまりにては相支へ、火花をちらし相戦ふ。林新次郎、并びに家子郎等、枕をならべて、討死なり。林の与力に、賀藤次郎左衛門と申す者、尾張国久/\取合ひの内、爰はと云ふ時には、よき矢を仕り候て、人々存知たる射手なり。此の度も、先へ懸かる武者をば、射て倒し、林新二郎と一所に討死。名誉と云ふ事も愚かなり。其の日は、午刻より薄暮に及び、以外の風雨にて、下々人足等、寒死候べき。夜に入って、大柿城まで御出で、十月廿六日、岐阜に御帰陣なり。
霜月四日、信長、御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。三好左京大夫殿、非儀を相構へらるゝに依って、家老の衆、多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉両三人、別心を企て、金山駿河、万端一人の覚悟に任せ候の間、金山駿河を生害させ、佐久間右衛門を引き入れ、天主の下まで攻め込み候のところ、叶ひがたくおぼしめし、御女房衆・御息達みなさし殺し、切って出で、余多の者に手を負はせ、其の後、左京大夫殿、腹十文字に切り、比類なき御働き、哀れなる有様なり。御相伴の人数、那須久右衛門・岡飛騨守・江川、右三人、追腹仕り、名誉の次第、此の節なり。若江の城、両三人御忠節に付いて、あづけ置かる。
十月二日、信長公、岐阜に至りて御帰城なり。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)