画証録(一部)
喜多村信節著
遊女 白拍子
和名抄、乞盗類に、遊女、楊氏漢語鈔云、遊行女児(宇加礼女、一云、阿曾比、或節云、昼遊行謂2之遊女1、待レ夜而発2其淫奔1、謂2之夜発1也、俗云、夜保知)と有、もとより賤き部類ながら、高貴にももてあそばれき、栄花物語、松のしづえの巻、後三条院天王寺に詣させ給ふ条に、二月廿二日のたつの時ばかりに、御船いだしてくだらせ給ふほどに、江口のあそび、ふたふねばかり参り、ろくなどぞ給はせける、朝野群載、遊女記、自2山城国与渡津1、浮2巨川1西行、一日、謂2之河陽1、往2返於山陽、南海、西海三道1之者、莫レ不レ遵2此路1、江河南北邑々処々分レ派、(一本作レ流)向2河内国1、謂2之江口1、蓋典薬寮味原牧掃部寮大庭庄也、到2摂津国1有2神崎、蟹島等地1、比レ門連レ戸、人家無レ絶、娼女成レ群、棹2扁舟1着2旅船1、以薦2枕席1、声遏2渓雲1、韻飄2水風1、経廻之人莫レ不下忘2家州1虞中浪遊上、釣翁、商客舳艫相連、殆如レ無レ水、蓋天下第一之楽地也、江口則観音為レ祖、中君、小馬、白女、主殿、蟹島則宮城為レ祖、如意、香炉、孔雀、立牧、神崎則河菰姫為2長者1、孤蘇、宮子、刀命、小児之属、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也、上自2卿相1下及2黎庶1、莫レ不下接2牀第1施中慈愛上、又為2人妻妾1歿レ身被レ寵、雖2賢人君子1不レ免2此行1、(中略)、長保年中、東三条院参2詣住吉社、天王寺1、此時禅定大相国被レ寵2小観音1、長元年中、上東門院又有2御幸1、此時、宇治大相国被レ賞2中君1、延久年中、後三条院、同幸2此寺社1、狛犬、饐(正しくはリッシン扁)等之類並レ舟而来、人謂2之神仙1、近代之勝事也、相伝曰、雲客風人為レ賞2遊女1、自2京洛1向2河陽1之時、愛2江口人1、刺史以下自2西国1入レ河之輩、愛2神崎人1、皆以2始見1為レ事之故也、所レ得之物謂2之団手1、及2均分之時1無2慮レ恥之心1者、忿2萬(正しくは厂たれ)之1与2大小1諍論、不レ異2闘乱1、或切2麁絹尺寸1、或分2米斗升1、■■有2陳平分肉之法1、其豪家之侍女宿女下船之者、謂2之■■1、亦遊得2少分之贈1、為2一日之資1云々、(長保の度の事は、前に引る栄花物語に見えたる、是なり、古事談にも、御堂殿御出家の後、七大寺に参らるる時、小観音来れり、御堂このよし聞かれて、赤面ありし、としるせり)また、栄花物語(殿上花見の巻)長元四年九月廿五日、女院(上東門院)すみよし、石清水へ詣させ給ふ云々、くだらせ給ふほどに、えぐちといふ処になりて、あそびども笠に月をいだし、らでん、まきゑさま/\〃に、おとらじまけじとしたて、まいりたり、と有、遊女は、かならず傘をさして、船中にあり、明衡の新猿楽記に、遊女をいふ処、昼荷レ登(正しくは竹冠)任2身上下之倫1、夜叩レ航懸2心往還之客1、といへり、月を出しとは、傘にかける絵をいふ也、小舟をこぎめぐらして、旅船につきて乗うつる事也、櫓をこぐは侍従の女のわざ也、此さま、法然上人画伝などに見えたり、御幸などに、おそれげなく押て参りなどせし、其頃のならひにて、公卿達多く遊女にかよはれし故なり、古事談に、遊女香炉は、小野宮殿と二条関白と、大臣二人に通じたり、とあり、されば、才能もすぐれたるもの多かりとみゆ、年山紀聞、明月記を引て云、建仁三年五月十三日御幸ノ記に、雨降、時々止、已時参2上御向殿1、小時還御、遊女着座、神崎妙スベリテ顛朴ス、今按、これは西行と贈答ありし遊女也、新古今にても、妙とよむべし、といへり、宸遊に侍る事も有し也、また、長門本平家物語、清盛厳島詣の時、室の遊女が贈りし歌、花うるしぬる人もなき我身かなむろありとても何にかはせむ、かやうのたぐひいと多し、漢土には、水滸伝に、徽宗帝、妓女孝師々が家に微行ありし事をいへるは、うきたる事とのみ思ひしに、升菴外集(巻八十六)李師々下(正しくはサンズイに上が突き抜けた下)京名妓云々、徽宗微行幸レ之、見2宣和遣事甕天坐(正しくは月扁)語1、又載、宗江潜至2李師々家1、題2一詞于壁1云々あり、然らば、水滸伝にも、事実なきにはあらず、また、板橋雑記に、在昔、宋徽宗在2五国城1、猶為2李師々1立レ伝云々いへり、
○古へ、遊女の名さま/\〃なれど、仏の名、釈家の語など名付たるが殊に多し、是又流行によれる也、書写上人が生身の普賢菩薩を見たりといへる遊女が名は、何ともなけれども、これは普賢といひしなるべし、宗盛が愛せしゆやといふ女の名、南嶺子に、くまのとよむべし、長秋記に、遊女久万乃と載られたり、熊野権現をことめかしくいはむとて、ゆや権現と申方より、遊女ゆやとよみ来り、謡曲も其誤を受たりと見えたり、長秋記に、然ありやなしや、いぶかし、また謡曲拾葉にも、ゆやとは母が名也、宗盛の愛せられしは、ゆやが娘侍従なるべし、謡に作る処相違せり、といへるも、いかゞあるべき、ゆやは侍従が名にて、侍従は宗盛につかへし時の呼称ならむ、
○遊女、もとは河海のほとり、旅船のはつる処に家居して、小船に乗て出しものとみゆ、価の定めなどはいかゞありけん、しるべからねど、禄の厚薄大かたにはさだまりしなるべし、かくて此徒多くなり、いづこともいはず、人の往還繁き駅路などの処々に出きしにや、東鏡、建久四年、里見冠者義成を遊女の別当となすべし、と有、繁茂せし故としらる、(頼朝卿、景季と橋もとの君には何かわたすべきといふ連歌の事、東鑑に見え、加賀守師高の愛せし萱津宿の遊君、大江定基が語らひし赤坂の遊君力寿など、源平盛衰記に見えたり、大かた宿々には、遊君有し事とみゆ)
○源氏物語、みをつくしの巻、社参のかへさ、難波田簑の島のあたり、(中略)、あそびどものつどひ参れるも、上達部ときこゆれど、わかやかにことこのましげなるは、みなめとゞめ給ふべかめり、されどいでやをかしきことも、物のあはれも、人がらこそあンべけれ、なのめなることをだに、すこしあはきかたによりぬるは、心とゞむるたよりもなきものをとおぼすに、おのが心をやりて、よしめきあへるも、うとましうおぼしけり、といへり、こは双子の地ならねども、作者の心にて、其頃、公卿達まことにはさはおぼさぬなるべし、さればにや、あるじとかたらはれし事共聞ゆ、
白拍子も遊女なり、遊女は音曲はなせども、いまだ舞ことはなかりしを、鳥羽院の御時より始まれりとぞ、是を源平盛衰記には、島千載、若ノ前よりといひ、徒然草には、通憲入道、これを磯ノ禅師といひける女にをしへたり、といへり、白拍子をかぞへて、などいへり、(職人尽の歌にも、一声にてもかぞへばや、といへり)さうぞきたるさまは、盛衰記に、初は直衣に烏帽子、腰刀をさして舞ける故に、男舞と申けり、後には、事がらあらしとて、えぼし、腰刀を止て、水干ばかりにて舞けり、といへる、さもあるべし、そのかみ、女の舞曲を尽せしことなき故也、職人尽の内に見えたるは、曲舞まひのみなり、是も腰刀は佩ず、漢土のむかし、剣器舞は、女妓、雄装、空手にて舞といへるに等し、又おもふに、彼遊女ども、磯の、島のと呼たるは、もと住居し処によりて称へしなるべし、是も高貴に寵遇せられしは、祇王、仏が類ひのみならず、亀菊などは、承久の乱を起せしに至れり、(中つ代、高貴のあたり、風流に過て、かゝるものまで咫尺しやすかりし、近き世になりては聞も及ばず、たゞ、八宮、両本願寺、二条関白など遊興ありて、朱雀に通はれしかば、とり/\〃上の御沙汰に及べり、又その前後、江戸にては、仙台の大守を初め、大家高貴花やかなる遊賞ありける、いづれも其家に事なきはなし、才能、古人に及ばずといへども、猶其頃迄も、拙なからず、手などは書たるものなりしに、今さばかりの者もなく、やむごとなき御方にかたらふべきもの、絶にしのみならず、一統に微毒のおそれありて、中人已上はかりそめにも戯れ難き物となれるは、いとよし、但し、此毒は古も同じかるべし)
傀儡考 百太夫 夷子まはし (一部)
和名抄、雑芸具に、傀儡を載て、久々豆とある如く、偶人なり、然るに遊女と同類のものとすること、何故とも弁へたるものなく、あらぬひがごとのみいふめり、又偏に旅館の出女と心得るは、詞花集(別歌)、あづまへまかりける人の、やどりて侍りけるが、暁にたちけるによめる、(傀儡靡)、はかなくもけさの別のをしきかないつかは人をながらへて見む、などあればにや、是によりて、藻塩草などには、遊女を海辺のあそびとし、傀儡を陸地のあそびとするは笑ふべし、旅館の女をしかいふは、後に准らへていへる也、こは、もと人形を舞し、また放下などせしものゝ妻、むすめどもの色を售しものなれば、傀儡とは呼たるなり、朝野群載第三、傀儡子記曰、傀儡子無2定居1無2当家1、穹廬艶帳遂2水草1以移徒、類2夷狄之俗1、男則皆使2弓馬1以2狩猟1為レ事、或双剣弄2七丸1、或舞2木人1闘2桃梗1、能2生人之態1、殆近2魚竜曼延(正しくは虫扁)之戯1、変2砂石1為2金銭1、化2草木1為2鳥獣1、能驚2人目1、女則為2愁眉啼粧1折腰歩■■笑、施レ朱傅レ粉、唱歌淫楽以求2妖媚1、父母夫知不レ誡■*(シバシバ)雖レ逢2行人旅客1、不レ嫌2一宵之佳会1、徴嬖之余自献2千金1、繍服錦衣、金釵鈿匣具、莫レ不2異有1レ之、不レ耕2一畝1不レ採2一枝桑1、故不レ属2権官1、皆非2士民1、自限2浪上1、不レ知2王公傍1、不レ怕2牧事1、以レ無2課役1為2一生之楽1、夜則祭2百神1、鼓舞喧嘩以祈2福助1、東国美濃、参川、遠江等党為2豪貴1、山陽播州、山陰馬州等党次レ之、西海党為レ下、其名傀、則、小三日、百三、千歳、万載、小君、孫君等也、動2韓娥之塵1、余音繞レ梁、聞者霑レ襟不2自休1、今様、古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満円、風俗、呪師、別法士之類、不レ可2勝計1、即是天下之一物也、誰不2哀憐1者哉、とあり、此文誤写多く、疑はしきことすくなからずといへども、概略は知らるゝなり、舟を家としてうかれありけば、居処の定めなく、男とある者はむねとするしわざなく、弓馬をならひ、木偶を舞し、人にみせて物をこひ、世をわたる也、猟は人気なき鳥山などにわけ入てすべけれども、弓馬とある馬は心得がたし、是を飼置ほどの大舶には、よもあらじ、誤字なるべし、木偶は人つどふ家居多きあたりに行てなす事とはしらる、その妻、むすめよそほひかざりて、色を売を、父母も夫もこれをしれども誡めず、と文には書たれども、さにはあらじ、もとよりしかさするが、此ともがらのなりはひ也、徴嬖の余千金の贈りものあり、といふ条、自他のけじめ弁へがたきやうなれど、是は女どものかたへうくる也、文意は、身を売て富る故に、珍異の服飾たらはぬ物なしと也、専ら歌曲をむねとす、と見えたり、弾吹の具、常に、身に随へありくなるべし、枕双紙に、とりもてるもの、くゞつのことゞり、といへり、そのかみのいひならはしにや、何にまれ、弾く物をばことゝいふ也、浪のうへに生涯を送りて、王公あることをしらず、課役なければ、いきほひ有人をも怕れず、などいへれば、是乞盗類にて、遊女よりも賤劣のもの也、嘉禄四年百首、寄2傀儡1恋、(為家)、大ゐ川岸の苫屋の竹柱うかりしふしやかぎりなりけむ、拾芥抄に云、霊所七瀬大井川傀儡居住上一町云々など見えたれば、家造りて住るもありしは、後の事なるべし、かゝりし後は、遊女にながれて、すべて遊君といへるにや、
○夜ごとに百神を祭りて、福助を祈れる事は、遊女もおなじ、遊女記に、南則住吉、西則広田、以レ之為下祈2徴嬖1之処上、殊事2百太夫1、道祖神之一名也、人別宛(正しくはリットウ)レ之数及2百千1、能湯2人心1亦土風而巳、とある是なり、これらが身は、旅路に在がごとくなれば、道祖神を祭りけむもことはり也、和名抄に、道祖、岐神、路神、と並べ挙たれど、大かたかよはしいへり、又、傀儡神といふことは、今昔物語廿八巻に、もとは傀儡子にて有けるもの、目代になりて、守の前にて下し文に印指す時、傀儡子多く来て、守の前にて歌ひ、笛ふきしに、目代うかれて、三度拍子に印さす、といふことありて、下文に、然レバ、一国ノ目代ニ成テ、オモヒ忘レタル事ナレドモ、尚其心不レ失シテ、シカ有ケム、ソレハ傀儡神トイフ物ノ、狂ハカシケルナメリトゾ、人イヒケル、又、卅一巻、豊前大君、知2世中作法1語の中に、除目ノ前ニ大君ノイフコトヲ聞人不レ成、トイフヲ聞タル人ハ大ニ嗔テ、此ハ何事云ヒ居ル、旧大君ゾ、道祖神ヲ祭テ狂フニコソ有ヌレ、ナドイツテ、腹立テナム返リケル、とあり、そのかみ、さへの神を祭り狂ふ、といふ諺有しとおぼし、傀儡神といひしは、道祖神の事と聞ゆ、百太夫は、おのれ、文化八年の春、津の国西宮にまうでしに、(此時開帳ありて賑はしかりき)御本社に向ひて、左のかた半町余り奥に、小き祠ありて、戸びら開きたり、その内に古き雛めける人形あり、冠衣にて坐する形して、顔は新たに紅白粉をきたなげに塗たり、是、百太夫の神像なり、其伝記など不稽の事なればにや、摂津志、また摂陽群談等の書にも是を載せず、地志などには、とまれかくまれ、記すべきことなるをや、名所図会には、百太夫の祠、神明社の旁にあり、此神は西宮傀儡師の始祖なり、とのみしるせり、社家に板行の影像あり、縮図にして爰に載、これを道君坊と称ふるよしを考ふるに、誤多かり、道君房伝記といふもの有、不稽の妄作なるは、論ずるにもたらぬものなれども、聊誤説の異同に挙るなり、
道君房といふ人は、西宮大神夷子三郎殿の宮司となりて、神慮にかなひしが、此人うせて後、神慮にかなふものなくて、風雨定まらず、つよくあらびしかば、百太夫藤原正清といふものに勅命ありて、道君房が形象を作り、是を舞して、神を慰めまいらしむ、それよりあるゝことやみし程に、百太夫は諸国を巡り、此術を以て諸神を祭るといふ、後に、百太夫、道君房が形象を淡路国にとゞめて、此術を伝ふ、百太夫は淡路国三原に居住す、死後、西宮の傍に祭る、今これを業とするものは、みな百太夫が後弟なり、これ諸国浮業の長たり、寛永十五年文月吉日、坂上入道、とあり、是は道君房を人形とし、百太夫を舞し人にしたり、影像の上に題したるは、道君坊百太夫大神、と二名を一体とす、其説異なるを見れば、此伝記は、淡路の傀儡子が伝ふるものならむ、さはれ、二説ともに誤なり、旧本今昔物語十二巻に、天王寺にすむ僧、名を道公といふ、年来、法華経を誦して、修行す、常に熊野に詣て、安居をつとむ、帰路、紀伊国美奈部郡の海辺にて日暮ければ、大なる樹の下に宿りしに、夜半に馬に乗りたる人ニ三人来て、樹下の翁は候か、といふに、樹下より答て、翁候、といへば、速かに御供すべし、と命ず、翁云、駒の足損ねて乗がたし、明夜はいかにもして参るべし、年老て行歩叶はず、馬乗ども是を聞て打過ぬ、
道公これを怪み、夜明け尋みれば、道祖神の形作りたる有、多年を経て朽たり、男の形のみにて、女はなし、前に板に書ける絵馬あり、足の処破れたり、道公是を見て、弥あやしく思ひ、絵馬の破たるを、糸もて綴り置て、今夜よく見む、とて侍けるに、夜前の如く馬のり来ければ、道祖も馬に騎て供に行ぬ、暁に及て道祖帰り来て、道公に向て拝して云、聖人の駒の足、療治し給へるに依て、公事を勤めつ、我は此樹下の道祖也、多の人は行役神にて、国の内を廻るには、必翁を前役とす、若供奉せざれば、罵りて、苔をもて打るゝ、苦み堪がたし、願くは、下劣の形を棄て、上品功徳の身を得むとおもふ、聖人の御力に依べし、といふ、
(中略)
神に太夫の名あるは、八所ノ御霊の藤太夫、橘太夫等の類也、また、続世継、花のあるじの巻、花園ノ左大臣遊事し給ふ処、御せうとの君たち、わが殿上人どもたえず参りつゝ、あそびあはれたるはさることにて、百太夫と世にはつけてかげほしなどの、あさゆふなれつかふまつる、ふきもの、ひきものせぬはすくなくて、外より参らねど、うちの人にて御あそびたゆることなく、伊賀ノ太夫、六条ノ太夫などいふすぐれたる人ども有て云々いへり、これは何くれの太夫といふがおほくあるを、百太夫といへるなンめれど、世に、吹もの、弾ものする傀儡子が祭る傀儡神の名によそへて、しか呼たるも知べからず、また此神、西宮にあるよしは、遊女記に、西則広田云々、殊事2百太夫1云々ある広田は、西宮の神社なり、男山石清水末社記に、西鳥居外云々、夷(広田)第五、三郎殿第六、百太夫第七、とあり、(源平盛衰記、鬼界島の条に、夷三郎と申神を祝祭る岩殿といふ処あり)夷三郎とひとつに称ふるはひがごとにや、いまだ考えず、傀儡子ノ記に、道祖を祭るよしはいはざれども、百神を祭るとあれば、百太夫はかならず其内にこもるべき也、今昔物語にいへる傀儡神にても知るべし、此輩がつかへまつれる神なれば、是を傀儡子の始祖などいふめり、古へ、此徒ならでも多く祭れるよしは、上に引る今昔物語にておもふべし、また、外記日記、天慶元年九月二日云々、近日、東西両京大小路衢、刻レ木作レ神、相対安置、凡厥体像髣2髴太夫1、頭上如レ冠、鬢辺垂レ纓、以レ丹塗レ身、成2緋衫色1、起居不レ同、逓各異レ貌、或作2女形1、対2丈夫1而立レ之、臍下腰底刻2陰陽1、構2几案其前1、置2抔器於其上1、児輩猥雑拝礼慇懃、或棒2弊帛1、或供2香花1、号2四岐神1、又称2御霊1、未レ知2何祥1、時人奇レ之、と見えたり、四岐神を扶桑略記には、曰2岐神1、とあり、それに従ふべし、此文、百太夫の神像とよく合へり、かく多く祭りしより、今に諸国に道祖神多きなるべし、されど、百太夫と称ふるは、外には聞も及ばず、懐橘談(承応ニ年、出雲の紀行也)松井邑に、道祖の神社あり、当国風土記、意宇郡、狭井社と有、今能義郡なる、是なるべし、今童が道端の道陸神といへる、是なり、正月十五日に童部共より合て、竹葉、松の枝をとり集めて、社を作り、道祖神を辻々に祭り、陰相を作りて、女をたゝき、螽斯を祝するも、此遺風なるべし、といへるはわろし、これは粥杖の事により、また此日、道祖の祭りもすれば、此神の猥褻に陰形付ることよりおもひよせ、人うつ杖をやがて陽具に造り、(是を孕み棒、大のこんごうなど呼処あり、大のこんごうは、大のをの子の訛言なり)彼是とり雑へて、新婦を祝する事としたるは、滑稽なる事といふべし、(中略)
○尤ノ双紙に、まふもの、でくゞつ、でこのぼ云々、あり、傀儡をいふ也、今でくのぼう(又おでゝこといふ事も有)皆道公の音の転れる也、関秘録(五巻)、でくは土偶の通略、でく入る箱をどうこといふ、其箱に似たる故、竈をどうこといふ、銅にてしたるものをどうこといふも、竈に似たる故也、茶の湯のどうこといふも、それに似たるゆゑなり、といへり、此説も猶誤り也、先ヅ、でくは道公の音にて、土偶にあらず、又、竈はもとより名あり、異名を聞ず、銅にてはり造りて湯貯ふる物は、後に出来て、名もなきものなれば、なぞらへてどうこと呼、おもふに、其も猶、茶の湯に用る器物より、うつせるものなるべし、この器は、傀儡子が首にかけて人形舞す筥を、茶の湯師が好事に似せ作りて、どうこと呼で、その文字を道幸と書り、こは誤り也、道公と書べし、
(中略)
○こゝにも、漢土に、私果(正しくは穴冠)子、土娼などゝいへるたぐひ、むかしより種々有しなるべし、建武元年、二条河原落書に、たそがれ時になりぬれば、うかれてありく色好み、いくそばくぞや数しらず、内裏おかみと名付たる、人の妻どものうかれめは、よそのみるめも心地あし、とあり、是即くゞつにて、遊女とは異なり、後には、人の妻にもあらねども、遊女の品の降りたるを、和名抄に、夜発といへる類を、くゞつとおぼえたり、
○職人図彙に、夷子舞しは津の国西宮より出る、故に夷舞しと号す、西宮のさし向ひ、海を隔て、淡路島にも此流あり、昔は、えびすの鯛を釣給ひし所を仕形にして、春の初めに出けると也、今は能のまね、色々尽す、浮沈みある音声、一風あり、世に傀儡子といふは是なり、といへり、淡路島三条村に、上村源之丞、同三太夫等ありとぞ、
今の浄るりの操人形は、西宮の傀儡子より起れりとぞ、其は別にしるしたれば、こゝにいはず、塵塚噺といふものに、(此作者、元文の初め生れし人といへり)傀儡子を江戸の方言に、山ねこといふ、一人して、小袖櫃やうなる箱に人形を入れ、背負て、手に腰鼓を敲きながら歩行也、小童これを愛して、其音を聞て呼入、人形を歌舞せしむ、浄るりは義太夫節にて、三絃なく、蘆屋道満の葛の葉の段、時頼記の雪の段を語りながら、人形を舞し、段々好みも終り、是切りといふ処にいたりて、山猫といふ鼬の如きものを出して、チゝクワイ/\とわめきて、仕舞也、我等十四五歳迄は、一月に七八度づゝ来りしが、今は絶てなし、といへり、(南水漫遊に、傀儡子、むかしは、西宮并に淡路島よりも出し也、夷子の鯛を釣給ふ仕かたをして、春初に出ける故、えびす廻し、えびすかき共いへり、江戸の方言に、山猫と云、人形舞して、末に山猫と名付て、鼬の皮を出して小児をおどす、当時、首かけ芝居と云もの、その余風なりと云り)
(中央公論社刊『続燕石十種』第一巻を底本としました。)