元禎筆記 巻二
湯浅常山著
一 大坂御陣之時、尾張大納言の御人数之後備に誰をか仰付らるべきや、と各申時に、渡辺忠右衛門申けるは、此度は後備入べからず。其子細は御所将軍跡におはしまし候上は、是程の後備世に又有べきや、と云けるによつて、後備は置れじとなり。無功者は後備といふ事なくて叶はずと計一遍に心得て、時に依て見合、急に備を賦る理をは弁ず。武者たるもの未来畢竟の理を予めせんさくすべし。備の跡を気遣ひ、跡備を肝要とするは、往古よりいひつたへて珍しからざる事なり。
さらば山中にて猟師になれたる犬は猪を追掛、吠詰々々透間もなく尾はふるなり。是は猪取てかへし、牙をならして犬をかけんとする時は犬飛びかへる。其時に跡にさゝはりあれば、ひかへる事成がたき故に、跡にさはりの有かなきかを兼て知るべき為に、尾をふりて試るもの也。是また跡備を知るべき為ならずや。誠にかやうの蓄類までも跡の気遣ひせぬにはあらず。況や人として其智の及ばざる事犬に劣りたり。渡辺見積りてその用意なきは武功者たるべきなり。
一 蜂屋半之丞常に申されけるは、二番鎗を功としてもすまじき也。若誰ぞ一番を仕候はゞ、我は太刀にて寄るべし。然らば二番鎗はせぬ筈なり、と申されて、何方にての合戦やらん、内藤四郎左衛門と寄合し時、半之丞引取申けるは、人に咄し申されけるは、四郎左衛門はよく弓を射て目ふるものははづし不申候。射付られ、犬死には詮なく候。勿論某に射付候はゞ内藤が真向を切割て申べく候得共、相打は面目ならざるゆゑ退く申、と語られき。
一 朝鮮尉山にて黒田長政諸大将と相約し、明日敵陣へかゝらんと定め、明朝早く又兵衛をば物見として遣はさるゝ。又兵衛川を渡りて敵陣近くゆかんとせしが、川上より馬の沓流れ下るを見て、敵陣へ行くに及ばず、早く引返して長政につげて云。
味方の大将既に川を越し給ふ人あり。此故に敵陣近く物見仕るに及ばず、早々帰りたり。急ぎ打立給へ、と進ける。又朝鮮にて長政の先手山のはなを廻りへだゝりたる所に有て、敵と戦ひときの声をしきりにあげ、又兵衛味かた打負け候よしを申。長政、何を以て是をしる、とのたまひければ、味方のときのこゑ次第に近く聞え候。まけて引、と申けり。案のごとく又兵衛が言にたがはず、敗軍して来。又兵衛見えざる所、武者ほこり立て見ゆ。又兵衛云く、敵は引と見えたり。いかんとなれば武者ほこり白みてみゆ。進む敵の武者ほこりは此方へかゝりて黒し。引敵の武者おこりは先へかゝりて白し。薄きこきによりて黒白のかはる、と申けり。
一 織田信長公つれ/\″成時仰られけるは、予が前に出るほどの者は、能事悪事にもさからはず咄しゆゑ、物の善悪も知らずして面白からず。只気分のすねて真直に語らふ者あらば尋て参らせよ、と仰ければ、かしこみて誰彼れと評議す。爰に安土の町に定一とて座頭有けるが、何ともならずざれもの也。是を出すべし、と則呼て、汝が心すねたくおもしろきかたぎなるをば聞し召及ばれ、御前へ出よとの御諚なり。御意に入ば検校になされん事案の内なり、と申されければ、定一打うなづき御前に出ぬ。信長公定一といふは汝がことか。汝はすねもの最上なるよし沙汰あり。いかにも吾に憚からず咄すべし、と仰ければ、定一承りて、それは皆人のひが事にて候。御意のごとくにすね者、人の申者身が事にては御座有まじく候。決て座頭違ひにて候べし、と申上る。信長公聞し召、扨は者どもめが身が前に追従に、汝をたばかつて出したるものならん、と語られけれ。
酒呑よ、とて御酒給はり候うて、物ものたまはず返し給ふ。広間にて人々、御気色はいかゞ、と問ひ給へども物も言はず、機嫌あしく帰りぬ。信長公長谷川菅谷を召て、定一と言奴は何の用にも立ぬ座頭めを、汝らは呼寄せしよな、と仰せられければ、両人何とも御返事申兼て、只今下々にては心の儘に萬申侍れども、御前を恐れ奉り遠慮仕るものにて候はん、とぞ申ける。其後定一に逢うて、何とて御辺は日頃咄すやうに仕り候はで、我々虚言申たるやうに思召忝感して申されければ、名の主君にておはしませども、御智恵はたゞ一かはなり。その子細はすねものにかくれなし。すねよとおほせらるゝを畏てすねる時には御意に応ずるなり。すねよと有をいや/\すねる事は候はず、と御意を背くこそすねると申ものなれ。其御分別はたらかずして、甲斐信玄を亡ぼさんと思召すは心元なし。各もよく/\御心得候へ。慮外ながら果報尽なばいかゞ、とぞ申ける。
一 高天神落城に及ばんとする時、城内より茜の羽織を著たる武者城外まで働き出て討死し侍る。その首を取て見れば薄化粧にかね黒々、髪かなきなればさらに男女の差別しれざりけり。或人のいふ。眼を明て見給へ。瞳上にみかへし、瞳の中に入て白眼ばかり見ゆるは女の首なり。
瞳明らかに見えなば男の首なるべし、といへり。眼を明て是をみれば瞳明らかに見えけるゆゑ、男の首に究まれり。後によく/\聞ば城主栗田刑部が寵愛せし小姓時田鶴千代丸なりしとかや。此時速水勝右衛門が女房長刀を持て切て出、比類なき働して其後自害しけるとかや。
一 大内義隆卿の家人に鬼武太刀助、山谷嵐之助とて勝れたる剛強の士あり。貳人ともに阻てなく親睦なりしが、山谷が娘を鬼武婚結して、吉日をえらみ向へ取らんと定むる所に、山谷が家臣の内海勘解由左衛門といふ古老の者諌めて申けるは、此度の婚礼かねて御親類に得と内談も送られず、麁忽に御契約ある事不覚悟の御事と存る。子細は元より鬼武は匹夫を出て姓氏詳からず、是一ツ。一旦血気にほこつて勇猛の名あるのみは良将の憎む所なり、是二ツ。其上不義無道にして溺淫大酒を好む。是三ツ。且また怪力を好みて神仏を敬せず、是四ツ。家に忠臣なければ放黨にして諌言を聞かず、是五ツ。然ば自滅も遠に有べからず、其威儀を人皆誰をもあざけりにくむ。猶また門葉の不祥によつて必ず自己を誤る例し、むかしより少なからず。此あやまちを改め給ひて然るべし、と申す。其道に至極すれば頓て婚姻変改し旨を申送る。鬼武大に憤りて、是を違へしうへはたゞ奪取て参れ、と手下のあぶれ者を五十人駆催し、嵐之助が館に押寄せ、ときをどつと挙たり。山谷不意の敵なる上に、家僕とても有合ず。防ぎ戦ふべきてだてなければ、只一人門外にはしり出て、大音にて謂けるは、是は如何なる御事にて候や。互に深き遺恨もなきに、君に奉るべき命を徒に捨べき所にあらず。か程の御憤おどろき入て候。娘を進すべく候間、いかりをとゞめ早く帰り給へ。今日幸ひ吉日良辰なり。晩景に及んで夫へ送り進すべし、と言ければ、鬼武聞て、武士の憤り是までなり。別義なし。と皆家々に帰りける。鬼武が家人二三人残り、御供申さんと留り居たり。山谷しすましたりと悦び、日已に暮ければ婚礼の粧ひして、年頃養ひたる八十有余の婆をこしに乗せ、簾中よりかき出し、下部貳参人付て送りける。
鬼武が家人ども手柄わざに取たりと悦び、館に帰りて、娘御を請取帰て候、と奥にかき入、戸をひらけば八旬の老躰、目くるめく様に荷ひ来り、腰膝いたくはりて立出んともしがたければ、待もふけたる乳母女房、さもこそつぼめる花のおもてよわく渡らせ給ふもことわり、とて手をとりかいとり用意して座右に直し、帽子うちかけ奥ゆかしげに嶋台の月日かゞやき、蓬莱の松がえかはらけかはらぬ色を粧ひ、千代の始のはじめて顔さしのぞけば、こはいかに白髪の老婆うちかたむきてこそみたれば、鬼武をはじめ家内の男女大に驚き、南無三宝、是は古狐か狸の化けたるにてや有らんに、松葉を以て鼻緒よ、硫黄よ松よとひしめければ、婆大いに驚き、振ひ声にて、吾らは化物にては御座なく候。山谷殿の下人にてこそ候へ。娘御の名代に参りて候へ。御馳走に合ひ候はんと仰に依て参り候、と云。鬼武大いに怒り、身をもみて、腹を立て、其婆をしばれ、下人を取らへよ、といへども逃失て只壹人もなし。いよ/\憎き仕業かな。暫くも待べきにあらず。今夜打果すべし、と大勢を催し、丑の刻ばかりに松明提灯を灯しつれて押行ける。山谷かねてよりたくみし事なれば、究竟の兵三拾余人程、路のかたはらに伏置けり。鬼武伏兵有とはしらず、真先に進んで来るを遣り過し、一度にどつと切てかゝる。持たる明松灯は敵の為になつて散々に切たtっられ、徒士ことごとく討れ、残兵はにげゆけば、鬼武は終に討死し、山谷が兵は壹人も討れず。悦勇んで引取けり。
一 日本の諸大将朝鮮に渡海して、釜山浦に充満せり。敵の退出したる明家ごとに、大なる瓶に酒卓山にたぶ/\として有けるが、何者が云出すともなく、此酒には日本人を誑らかさんために毒を入置ぬるぞ。一口も呑べからず、といふにより、諸人恐怖して酒瓶の傍へよりつくものなし。然る所に或人申けるは、此義誰申となければ実不実分明ならず。若虚説にてある時は、朝鮮の酒をまこともなき説におぢて一滴も呑ずして捨たると、後世迄も嘲笑せられん事口惜き事なるべし。
もし又毒を入たるが必定にて、自然壹人も死すへたらは猶以て恥辱たるべし。たとへば知らざる国へ行て大川の瀬踏をし諸軍勢をわたすも、此毒酒をのみて実否を諸人に知しめて飢を助るも同じ理なり。されば何事にても我一命を捨て万人を助る士の本意なり。日本を出し時捨たる命なれば露ちり程もをしからず。我此酒をのみて諸人の疑ひをはらさん、と大盃を持て引請/\三盃呑て何の恙もなし。其味ひ甘露のごとくなり。ゆゑに高麗陣中諸軍勢卓山に酒を呑たり。是ぞ誠に俗に言ふ毒のこゝろみなりしとかや。
一 山本権兵衛義安、天野半之助義久は松倉豊後家臣なり。二士の碑の銘洛東黒谷に是あり。義安の碑は人見鶴山の述作にして、佐々木万次郎が筆跡なり。天野了古の銘は野間三竹法印の述作、三閑の墨痕なり。天野了古墓誌の銘と是ある八字は石川丈山の筆跡也。
一 木村長門守若江にて討死す。組の輩河崎和泉、水谷忠助、佐久間蔵人、村上十太夫、笹岡右京、大塚甚右衛門、牟礼彦三郎、松浦佐吉、青木四郎左衛門、早川五太夫、秦兵庫、黒木藤七、根来智徳院已下、長門が死骸の前後に枕を並べて討死す。長屋平太夫は白き母衣をかけ、青木七左衛門は黒き切烈にて掃部人数に紛れて居けれ共、赤備に違ひけるゆゑに生とられけり。大御所聞し召れ、平太夫は今福にて一番、七左衛門はけふの一番頸、吟味の上にて両人とも御助成され、五百石づゝ被下れて、美濃の国に罷りありて病死すといへり。
一 大坂夏陣に大御所京極御出馬、五月二日のよし御触是ある所に、戸田八郎右衛門といふ浪人、江州の代官鈴木左馬介を兄の敵なりとて、四月二十六日の岡にて討取、山越に三井寺へ退く。然る所に左馬介挟箱の内に、大坂内通の密旨一揆蜂起廻文ありけるを、板倉伊賀守ひそかに二條へ差上られ、夫に付て御吟味甚しかりしかば、
弥実正に相極り、左馬介が舅古田織部、八條道二、木村宗喜、同類たるによつて、宗喜を始二十余人召捕、織部は主人として此陰謀を知らざる事は有べからず、と板倉伊賀守に御預け被成、御詮議有所に、秀頼の内意をうけ、両御所京都御立のあとを焼払ひ申べき旨露顕しければ、織部も切腹し、宗喜以下二十余人、日の岡に張付にかけらるゝなり。
一 増田兵太夫大坂冬陣の時に関東方に侍りけるが、大坂方強ければ喜び、弱ければかなしみける。目付此よしを訴へけるに、大御所聞しめされ、奇特なる心ざし、誠に右衛門尉長盛が子にて似合たり、とて夏陣には、城中へ参度ば参れ、
と御内意にて、城中へ入ければ、秀頼御感有て、錦の御羽織を下されぬ。五月六日藤堂和泉守内磯野平三郎を組ふせ、首取べかりしが、磯野が若黨折合引返さんと、平三郎に討れけり。
一 木村常陸助は聚落関白秀次公の寵臣たり。然るに大坂には秀頼公御出生有て、太閤の御寵愛限りなき躰を見て、寄/\関白殿へ御謀反を進め奉るといへども、壁に耳有、よし緒無事申べからず、と聞入給はざりしかば、所労と号して三日の御暇申請、ひそかに大坂へ下り、御城へしのび入ぬ。其夜しも秀吉公上洛おはしましければ、門々のとのゐなどもきびしかりけるに、たやすくしのび入たるぞ不思議なる。天守へ忍び入、太閤様御秘蔵の水指のふたを取て帰り、秀次の御前に参り、件の様子を語り奉る。
秀次是を御覧じけるに、先年秀次より御進上の水指のふたなり。不審なる事かな。異なるものならば、うたがはしくも思ふべきが、我手馴たる物なれば、予が見損ずへき、とてなゝめならず感じ給ひき。大坂には是を尋ねさせ給へども見えざれば、何ものかあやまちしてかくし捨たるらん、とて金にて造らせられける。後に聚落城闕所の時此道具見出たるにより、此事不審におぼし召、秀次に尋られてぞ直に顕れける。
一 大坂の役五月六日、井伊掃部内庵助右衛門子息主税いまだ幼少なりしが、真先きかけて木村長門守が陣へ乗込、能敵と引組て組しかれ、既にあやふく見えたる處へ、親助右衛門参り付て、主税神妙に仕候へ。是にて見物する、と声をかけて下り合す。主税是に力を得て、脇差を抜て下より差通す。
よわる處へ主税が家人駈より、敵を引伏せ主税に是を取らせけり。横地修理、西郷伊予是を見て大いに感じ、大御所へ申上候。御感なゝめならず、何れも申されけるは、幼少の子眼前にて敵に組しかれて有を、親として助けざるはいかにぞや、と尋ければ、助右衛門聞て、誰とても子は不便なるものにて候、と計答へたりけり。
一 慶長五年八月、山口玄蕃息右京之亮は石田に一味して、大聖寺の城に籠れり。前田肥前守利長大軍を率して攻らるゝ。城兵わづかなれど、山口父子聞ゆる勇士なれば、度々突て出て戦ふに、寄手も多く討れけり。右京之亮は常に鉄炮を鍛錬して玄妙を得て、かけ鳥なんども十に一ツも打はづすといふ事なし。兼て石堂山に人形を立置、本丸より打けるに、逃る事更になし。右京之亮思ふ様、定て利長、利政兄弟の内何れなり共、石堂山に登て軍の下知を致さるべし。さあらば只一放しに打て取らん物なるを、と相待居たる處に、案のごとく肥前守此山に登て団扇をとつて下知をなす。胄に銀の鹿角の前立物なれば、まがふ方なき大将なるぞ、と大いによろこび、例の膝台にてためすまし、火蓋を切て思ふ矢頃を仕認て放しけるに、其儘立消して止ぬ。是は如何にと心いらつて口薬を付かへ打けれども、亦立消しければ、南無三宝と観念してまたつきかへける。
其間に利長麓に下られるに、無念といふも余りある。利長元来智謀の勇者なれば、古今名将の遺風を学び、戦場に趣く度毎に、我に相似たる武者十騎づゝえらみ出して、同しおどしの鎧を著せ、同く銀の鹿角の前立ものをし、近習に召連られ、何れか利長成らんと味方の者さへ迷ひける。暫くして武者一騎石堂山に登るを、右京之亮きつと見て、扨も冥加つきたる利長や、と最前にこりて火皿をさらへ心をしづめ、二ツ玉を込打ければ、矢壷たがはず胸板を打ぬき、弓手にどふとたをるゝ。右京大に悦びて、大将利長を吾打たる、と大音挙て呼はる。敵も味方もさわぎ、能々聞ば利長にはあらで奥村助十郎にて有ける。寄手再び機意を得て、大手搦手一時に鯨波を作りて攻とり、本丸へ乗破り、城兵命を軽んじ義を惜み防ぎ戦ふといへども、こと/\″く打死す。山口父子も自身鎗をふるうて込入る敵を追出す。右京之亮修弘父に向て、日頃に貯へ聚給ひし金銀にやり長刀を持せて、など働かせ給はざるぞや、と大声にあざけりて四方八方に狂ひ廻りしかば、更に近付者はなし。こは是迄とや思ひけん、山口父子自害して落城にぞ及びける。
一 冨田蔵人は比類なき武者の者なり。新関白秀次の寵臣なり。然るに秀次生害有しかば、蔵人も謝恩の為殉死すべしと、北野経堂の前に出て、既に切腹せんとする所を、家来共大勢来りて蔵人を駕篭に押入、何国ともなく連て退く。京中の貴賎見物に聚りたるものども、皆手を打て大笑ひし、日本一の臆病ものかな、と珍らしく物語をだに云へば、諸人語て笑ひの種とす。前田宰相利長是を聞て家臣どもをめし集め、我思ふ子細有て人を抱へたく思ふ間、知行は一万石を我に與へよかし、と宣へば、諸臣承て、勿躰なき仰かな。とかくは御意に随ひて申さん、と申ければ、此時は別の儀にてもなし。彼冨田蔵人を扶持せんと思ふなり、と有し時、諸臣大に歎じ、惣じて大将の武功有者を抽賞あるは、諸士の勇気をはげましめん為にて候はずや。彼は武士道の冥利なきものを、某等が同類には近頃口惜しき次第也、と申。利長、さらばこそ我に知行を與へよと云しは爰なり。彼蔵人は鎗をつく事は兼て名誉は得たれども、腹切ことは日本一の下手なり。
此肥前守が所にては腹を切事はいらず。只鎗をつく事を用るなり。一万石は廃りものぞ、と思ひかへて有て、蔵人が京の西山に蟄居して有けるを呼出し、一万石の禄を給はらん、との事也。蔵人、某は最早すたりしものなれば、罷出て再び武士の業を勤ることあたはず、と再三辞退申けれども、無躰に呼寄せ抱らるゝ所に、今度大聖寺の先手をば乞、一番にしかけ、諸人顔をも向べからざる場へ詰よせ、疵を蒙るといへども物ともせず、ひたとついて攻込、大手の門の内にていさぎよく討死す。依之諸士舌を振うて彼が武勇を感じける。利長諸臣に向て、此者かゝる動作せんと我兼て思慮せしなり。功有ものゝ一度思ひ寄らざる面目を失ひ、日本に隠れなき悪名を得たれば、いかにもして此恥をそゝがんと思はざるべけんや。渠が前方の働にて知られたり。其方達に知行を乞うて是を抱へしは肥前守が目きゝあしきや、と自慢ありしかば、浅からざる御つもりと諸人感じき。
一 遠州高天神の城は武田勝頼より岡部丹波守、栗田刑部其外多勢込置れける。家康公より諸勢を遣し責させらるゝといへども、城兵堅固に取固め、急々落べしとも見えざれば、四方に塀柵堀をほつて取請ければ、去々年より永々の籠城に兵粮尽、勝頼へ度々後詰を乞ける。其中に横田甚五郎はひそかに勝頼へ申けるは、後詰被成然るべからず。只此城は捨らるべし。籠城の人数は随分切ぬけ帰るべし、と申送る。武田方にも、後巻して詮なかるべし。結局味方の負をし出、後の軍難儀なるべし。然れ共籠城の人数見殺しにせん事、武の恥る所なり、如何すべき、と評定半ば成所なれば、弥後詰なき筈に極りぬ。
天正九年四月廿二日戌の刻に城中より切て出、柵を破りしか共、城兵は多く討れける。大将岡部丹波守を本多主水組の首を取けるが、谷へ取落し夜あけて彼所へ行取て戻り、何ものやらんといふ所に、頼■石見能見知りて、是は大将岡部丹波なり、といへば俄に土をあらひ落し三方にすゑけり。栗田刑部は城に火をかけ切腹す。横田甚五郎、相木市兵衛は難なく切ぬけて甲州へと帰りける。勝頼大いに悦び、褒美して太刀を出されける。甚五郎頂戴して後申けるは、某元祖父原美濃守、養祖父横田備中も数度の手柄を仕り、信虎公、信玄より御褒美を度々下されたると承り及び候。それがし廿八歳、とし盛りにて能退逃帰りたるとの御褒美は、先祖の名を汚すにて御座候、とて太刀を差し上けるとなり。
一 木村長門守今福堤に於て、佐竹衆といどみ戦ひ、渋井内膳を討取られし柵を取かへし、大に武功をあらはす。秀頼大いに感じ、正宗の脇差に感状を添て賜ふ。長門守慎て是を頂戴し、則御前に差置申けるは、旧冬今福合戦の義は、聊も長門守が武勇にあらず。御預りの軍士又手の郎従どもが身命を捨て相戦の故に利を得候。ことに大野修理、後藤又兵衛七組の番頭、各々粉骨尽されけるゆゑ、今福、鴫野の両所にて味方利を得たり。
何ぞ木村一人が高名とせんや。又御感状之事、重成が望の限りに非らず。今度においては両種共に恐れながら御宝蔵に預け置奉るべし。其故は長門守に於ては二君に仕ふべき覚悟に非ず。凡御運を開かれば御眼前に於ての合戦なれば、御感状に及ぶべからず。もし又果報つたなくして世を早くならせ給はゞ、長門守は冥途黄泉の御先手を承るべきなれば、閻魔の庁の訴にせんより外は益なきか。この故に先頂戴仕る間じき、と言上しけるとなり。
一 井上又右衛門、小早川の家臣也。本城越中守をば組ふせ、首をかゝむとせし處に、本城念仏をとなへければ、首を取ずしてあたりをみれば、二宮杢之介扣へたりしがこゑをかけ、其首取、といひしが、二宮思ふやう、何様首打がたきものよ、と立より首を取。是によつて、元就相うちの感状出されけり。
井上が曰、念仏申たる敵の首は逃首のごとく、瞳つくゆゑにこそ二宮遣したれ。我に於ては感状うけ申まじく候。二宮聞候て、井上首取かねて呼懸たればこそ首は取て候へ。吾に其首呉たるなど申さば、感状はいらず候、と互に受ず。すでに公事に及びて年をへたり。其後扱ひに成て両感状を与へらるゝなり。
一 可児才蔵吉長は、藤原氏にて越中の出所也。佐々内蔵介に仕へて武勇万卒に勝れたり。後秀次に仕へて尾州小牧の陣に供しけるが、長久手の一戦に人より先に退去するにより、武士道をかきたるとて高野山に入。其のち福島左衛門太夫に呼出され、朝鮮に趣き比類なき働き有。関原合戦の時青竹を差物にして、首を取るごとに笹の葉を口に入置、取捨にして帰りける。味方の軍兵拾ひ来て実験に入ける時、其首は我が取りたる首なりと云。拾ひし者共立腹して口論に及びぬ。才蔵が曰、ほしくば取らすべけれども、我ら取しには印し有。胡論なる事いふべからず、といへば、弥立腹して、何をか印しいするぞ、といひし時、口中の笹を証拠にして、才蔵が取しに究りぬ。
果して言葉のごとく首級二十に揃ひたる。夫より可児を改て笹の才蔵と云。感状に曰、
其方今度濃川岐阜合戦之砌、進先陣ニ合鎗事廿八度、捕首敵貳十騎、言語同断古今無例之至、早々摩利支天之再誕、動肝膽訖、仍為勤賞五百石宛行候、弥可勵戦功者也、仍感状如件
九月廿日 福島正則判
可児才蔵とのへ
慶長十八年十一月廿四日、行年六拾歳にて芸州広島にて病死す。則矢賀山の麓に葬る。今にいたりて石塔あり。往来の人拝せずといふ事なし。
一 備後国の住人廻神藤十郎元豊といふ太刀の勇士有。其丈六尺八寸、面も手足も毛生て熊のごとし。毛利元就に仕へけり。其頃尼子経久と毛利元就と和睦の使として、経久の家人大杉抜右衛門といへる者来れり。此もの杉の木の二尺廻り有けるを根引にしたりしかば、大力の誉を賞して経久、大杉抜右衛門と呼給ふ。元就此大杉に対面して、力のほどを誉感ありて後にいふ。此庭前の杉大木には非ざれども、抜て見せられ候へ。
力量の程を見申度、と急に所望有しかども、堅く辞退す。時に元就の曰、定めて御辺ほどの力にては有まじけれども、此木をぬくほどのもの家人に候間、ぬかせて見せ申さん。御覧ありて廻神藤十郎を呼出し、庭前の杉を根引にして大杉殿の見参に入よ、と命ぜられける。廻神、畏り候、と座を立て、一介の杉の木をたやすく抜て庭中にたふしたり。大杉恐怖の躰に見えて退出す。元就敵の気をうばはんと、前日より根を切おき、かく計らひ給ひしとぞ。
一 大坂陣の時、井伊の掃部を御先手に仰付られ候時、御旗本は伏見に居らる。掃部を先より六地蔵に居給ひぬれば、人数をば伏見へ押出し、淀堤へかゝつて押行備也。伏見まで押間旗奉行広瀬左馬助、孕石備前の両人幟をふせてゆくを見給ひ、掃部怒て何とて幟を張立ざるぞ、と数度に及び使番を越るれども、両人ともに、我等次第に成されよ、とて下知を用ひず。伏見の御旗本まで押付たり。淀堤へかゝる時、伏見の肥後橋より幟を張立けるとなり。
人その故を問に、六地蔵より御旗本に向て押に、幟を立ば見分然るべからず。其上今度先手を承て旗を張立送様に、本陣に向て押事不吟味なりと人の褒貶も有べし、といへば、人皆心ばせ浅からざる勇士なりと感じき。大坂に於て味方既に危ふかりし時、両人共に旗を地に付て手を放さず、討死しけるとかや。先年長篠敗軍の時、甲州の馬場美濃守は馬上にさいはいを持、刀の柄に手をかけず、馬場にて有ぞ。討て武士の名誉にせよ、と云ていさぎよくうち死しけるも、今両旗奉行の所存もよく其職を勤たり、と皆人大いに感じけり。
一 天正六年十月下旬、明智日向守光秀、丹波国氷上郡高見の赤井五郎宗友、保月の赤井悪右衛門宗重が楯籠し城を巡見して、保月の二里此方なる金山に本陣を取けるに、其夜しも俄に大雪降積り、寒気甚しかりしかば、諸軍焼火し身をあたゝめ、敵寄べきとも思ひもよらず、油断して眠り居たり。宗友、宗重此雪を幸ひと究竟の兵をすぐつて一千余騎、相言葉を定め指物鎧を著せず、敵の首取べからず、討捨にすべし、と累をかけ、其道二里の所を不意に打立て金山へ押寄、時をどつと作り、家々に火をかけ透間もなく攻たりける。
明智が兵ども思ひもよらぬ事なれば、周章さわぎ防がんとすれども、二尺余りも積りたる雪にかんじきもかけず、素足にて出向ひたる事なれば、何の役にたゝず。先手の五百余騎散々に打被成、討るゝもの数をしらず。本陣さして頽かゝりける間、前後不覚に成て我先にと崩れ行、大将光秀歯をならして、憎き者どもの有様や。敵は小勢成ぞ。引返せよ、と下知すれ共、耳にもさらに聞入ず。光秀も是非なく敗軍して、亀山へぞ帰りける。
一 毛利秀就の屋敷に狐夥しく徘徊し、つぶてを打あれけるが、秀就の嫡男いとけなくおはしまし、白鶏を愛し給へるが、夜中に失にけり。所々を尋らるゝに、後園の築山池の辺りに鶏の毛を散らし置たり。疑ふ所もなく狐の取食ひたる成べし。此築山に狐の棲穴あれば燃殺さん、と小扈従に云付て松葉を多く取寄られしを、母君ひそかに聞たまひ、使を以て是を頻りに留給ふ。其時幼君つゝしんで仰けるは、家中の士喧嘩をいたし、一方を殺したる時ゆるして助侍らんや。
此鶏は狐に慮外も仕るまじ。夫を取殺してくらひぬる科あり。鶏も家来のもの、狐も我領地の内なれば殺すに無理は候はじ、と使を返し給ふ。母公重て宣ひけるは、申給ふぞ理り、重々至極せり。さりながら我に対して免させ給へ、と漸くいさめ留られける。夫よりして狐もしづまり、礫も打たずなりぬるとかや。七歳の若君には有難き御心ばへ、と人皆聞て感じけり。
一 南都東大寺は聖武天皇の御建立にて、種々の奇宝貨を此寺に残し置給へば、三の蔵を造り納められける。是に依て古より此三蔵を開く時は、勅使下向有て勅封を切給ふなり。頼朝卿大仏供養の為に東大寺へ参詣し給へども、三ツ蔵を開き給はず。報謝の為に鎧太刀をば納め給ひけり。其後鹿苑院義満公、宝徳二年八月廿八日、一條摂政近衛関白を同道ありて春日詣し給ふ序に、東大寺の宝蔵をひらき給ひぬ。天下の権をとる武士蔵より開かるゝ事は此事に始り、つづいて義持公応永廿三年九月十一日、春日参詣有て宝蔵をひらかせ給ふ。義教公、義政公、鹿苑院殿の例に準じ春日詣し給へば、三蔵をひらかせ給ひし事も有し。是より後は国家争乱によりて春日詣有し事は聞えざるなり。世俗の申伝へに、天下を治る人一代に一度づゝ宝蔵をひらき、蘭奢待の香を一寸づゝ切取給ふといへり。
是によつて織田信長公、秀吉公も切取給ふは世に残りて、是を蘭奢待なりとて、香に癖有は十襲珍蔵せり。東照大権現も此例を追せ給hて、慶長七年壬寅六月十日に禁中へ奏し、勅使を乞宝蔵をひらかせ給ふに、大権現へ御心操、古禮を存し先規あがめ給へば、聖武天皇の御遺宝の蘭奢待を切取事は無下に放埒なり。先例といふとも切取るべからず。宝蔵の道具ども久敷打入てさらし改めざれは、上漏下湿の怖れ有。且また盗賊のおかし奪ふ事も有べし。帳面に合、敗壊するもの有ば修補すべし、と奉行に被仰付けり。香見壽命院を遣めされ、蘭奢待の品を見せ給ふに、本口壹尺五寸計、長サ五尺余り、半分計は中空虚なり。此外紅沈香、麝香、人参、綾繍、錦繍、瑠璃壷、印子の針、様々の装束、琴、簟、篳篥、笙于(竹冠)に長櫃五十に入りたりければ、山のごとくに夥しき。八百年に余り衣服珍器の少しも損せざるは、奇特なりと何れも言あへり。
元禎筆記巻貳
(岩波文庫『常山紀談』下巻を底本としました。)