朝倉始末記 巻第四


朝倉始末記あさくらしまつき

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朝倉始末記 

巻第四(全文)

義昭公下2向越前1事

永禄九年丙寅九月の末、源義昭公不慮に朝倉左衛門督義景を頼給ひて、越前国へ御下向ありし由来を委尋ぬるに、前大樹萬松院殿に御曹司三人御座しけり。第一は都の御所にて義輝公と申せしが御他界以後は光源院殿とぞ申ける。第二は奈良一乗院に入せ給ひて覚慶と申けり。是義昭公御事なり。第三は北山鹿苑院に御座して周高(正しくは日冠)とぞ申ける。此光源院殿の御代に天下の武士多く官位を歴進して御威光殊に高かりけり。去程に越後の長尾は弾正の少弼に任じて、御相伴衆にぞ被レ成ける。阿波の三好氏も本は細川家の郎等たりしを、修理の大夫に任じて、御相伴衆に召加へらるゝのみならず、猛威次第に秀出して五畿内をこそ治めけれ。爰に松永弾正と云者あり。本は名もなき者なりしが、三好に随逐していつとなく勢を得、遂に大和山城の守護職となり、奈良の多門山を城郭に構て南都京都の成敗を司りけるが、修理大夫も老衰し、子息筑前守義長も早世しける程に、十河氏の子を取立て、三好になし、左京大夫義継と号しつゝ松永洛中を悉に進退して思の儘に振舞けり。然る間、君を失なひ奉て万端我意に任んとや思けん。異なる事も御座しまさゞりしに、潜かに三好を勧めつゝ左京大夫義継并に松永が嫡子右衛門、佐久通両大将として一万兵を引率し、永禄八年五月十九日、清水詣に事寄せて、また夜の深きに何とは不レ知洛陽東山の御所にぞ推寄ける。其頃は畿内暫無為にして、御用心も可レ有折ならねば、当番の外伺公の武士無りける程に、凶徒思ふ図に攻入て、義輝公不慮に御生涯成されけり。北山にまし/\ける鹿苑院殿へも平田和泉と云者を指越、方便つゝ遂に恵比須川にて撃奉りけり。加レ之南都一乗院に御座有ける覚慶をも失ひ奉らんと、風聞頻なりしかば、一と先奈良を落て還俗し、兄の敵を討んとて、御名を義昭と改めて、一乗院を出給ひ、近江国甲賀郡和田和泉守秀盛が舘へ入せ給ひて、其れより同国矢島の郷へ被レ移2御座1を、今茲の八月より翌年の秋まで御滞座被レ成、佐々木左京大夫義賢入道承禎を御頼ありけれども、三好退治の義難レ叶の由を申ける。剰へ心替の旨仄聞えける間、義昭公力ら及ばせ給はず、若狭守護武田大膳大夫義統御縁者たるに依て、彼の舘へ御遷座なる。武田随分崇敬不レ斜けれども、若狭は分内狭ふして計略を廻し、御本意を被レ達せ事難レ成かりければ、越前の朝倉義景は武田と縁者なればとて、大舘治部大輔晴忠を以御頼被レ成度旨、一乗の谷へ被レ仰せ遣はされける處に義景畏て承、凶徒退治の儀奉レ得2其意1趣き御請を申され、即朝倉孫八郎景鏡を為2御迎1被2指越1ける程に、義昭公御感余りに先孫八郎を式部大輔にぞ成れける。去程に永禄九年丙寅九月晦日、義昭公若狭より朝倉九郎左衛門景紀入道伊册が敦賀城へぞ御座を移されける。御供の人々には京極近江守、仁木伊賀守義政、武田大膳大夫義統、大舘治部大輔晴忠、同伊予守、同佐渡守、上野陸奥守信忠、一色播磨守晴家、同松丸、同式部大輔藤長、佐々木治部少輔高成、和田伊賀守、同雅楽頭、飯河山城守、同肥後守、丹波勘解由左衛門尉、同丹後守、大月治部少輔、伊勢宮千代、三淵大和守舎弟、細川兵部大輔、牧島孫六郎、曽我兵庫助、野瀬丹波守、沼田弥十郎、杉原長盛以下とぞ聞えける。斯て早々一乗へ御座を移され度思召れけれども、例年よりも寒気甚しく、荒血山木の目峠、莫大の深雪にて、人馬の通路絶へければ、九郎左衛門申しけるは今冬は是非当地にて御越年成され、来春雪消て後御遷座宜かるべしと頻に奉レ留に依て、義昭公其意に任給ふ處に、永禄十年の三月、又不慮に加州の一揆等堀江中務丞景忠を語ひ蜂起する由にて、国中騒動不レ斜間事静て後、一乗の谷へ入御可レ有るとて、同年十月まで其儘敦賀の城にぞまし/\ける。

堀江依2謀叛1讒流流浪の事

去程に永禄十年の春の頃、堀江左衛門三郎景実、加州一揆の奴原を語ひて謀叛の由、何となく風説頻なりければ、義景大に怒り給ひ、言語道断曲事の次第かな。其義ならば早々踏つぶし候へとて、魚住備後守景固、山崎長門守吉家、両人に被2仰付1ける間、同三月十八日両大将二千余騎を引率して金津の所司代堀江河内入道が館にぞ着陣す。堀江父子是を聞て不2思寄1事なれども、今は遁す所なりとて諸勢に触れ回して着到を付ければ、一千余騎と記したり。左あらば三百余騎は上番の森村の間に可レ隠。又三百騎は上番より二三町取出、谷畠村の前にて寄る敵を待請て戦へ、其時敵の機を窺て、森村の伏兵一度に突出て、一方を破るべし。然らば我が旗本の者共、敵の本陣へ無二無三に切り懸て、是非に大将を討捕るべし、若又敵多勢にて競ひ懸ば、味方弱々と会釈て態と虎口を引退け、敵乗レ勝追懸は、森村の伏兵能き図を計て駆出よ、其時我旗本より揉合せて追取籠、一人も不レ泄討捕て、仏徳寺の前なる辻の橋の落江を埋よと下知せられければ、諸勢尤と肯つゝ弓矢取、命を奉2主人1は何れも同事と云ながら、景忠、景実の重恩をば、今此時に不レ報ば末代までの耻辱なり、各絶命此度ぞと義心鐵石の如にして、夜半より打出つゝ寄来る敵を、今や/\と待懸たり。然處に魚住、山崎の両将より物見を遣し、彼三百計の勢を見て評議しけるは、仮令俄の事なりとも堀江が勢一千人は有べきに、是は余りの無勢なり、如何様これは推量するに、残る人数をば向の森村の間に伏置て、小勢と見せ、味方を偽引出して取籠、討ん謀と覚えたり、其義ならば味方も術を設べし。先一陣に五百騎計り打出て、敵と手痛く可レ戦、二陣に六七百騎計り東前寺の森を楯に取、下り敷て鎗衾をつくり、敵の知ぬ様に静り返つて可2相待1、敵若引退くとも勝に乗て永追ひすな、敵又緊く突懸らば、我兵左右へ颯と引て旗本の両脇を可レ守左あらば、敵軍味方弱しと心得て勇み進て進懸べし。其時荒手の二陣揉合せて一騎も不レ残捕べしと法令を究つゝ、翌曉霞を分けて打出たり。双方互に知つ知れつ、智謀深き大将の三段宛に備て、睨合ける有様は、さながら竜虎の戦も斯やと思遣れたり。角て巳の刻比より敵十人足軽を出せば、味方も十人出し、廿人出せば味方も廿人出して、矢軍鉄炮軍有けるが、其後屋形勢誰かし某と名乗出て、打物に成ければ、堀江が宗徒の侍に堀江左馬助、同下野守、同市右衛門、堺図書、神波七兵衛、野尻与三左衛門、北村次郎左衛門等皆是一騎當千の者共也ければ、面も不レ振命も不レ惜、爰を先途と攻戦ける處に、左衛門三郎景実、平侍に出立つゝ、十文字鎗をつ取て被レ出ければ、平田禾右衛門と云者是見て、以の外御事哉、大将は左はせぬ物にて御座候ぞとて押隔々々留けれどもいや/\若き者の事なれば望所の幸なるぞ、手涯の程を見よやとて真しぐらに駆出て、向敵を突臥々々押て頭を取せられしは、其数更に無けり。然處に寄手に螺を立ければ、兼て相図やなし置けん諸勢、左右へ颯と分れて引ける。老功の武者と覚敷て、左右に騎馬二人づゝ駆廻々々輪乗を成つゝ引纏て退し程に村鳥の渡るが如く、一人も不レ残引にけり。堀江が勢勝に乗て追懸るかと思しに、左はなくして森の二陣へ早馬を立ける間、森の中に大鼓の音の始りければ、堀江が勢も一度に颯と引たりけり。景忠は春日の庭にて床机に腰かけ頭実検をせられけるが、討捕都合九十七、当方の討死、平野四郎兵衛、堺彦右衛門を始として三十二人と記しけり。去程に屋形の両大将も打寄つゝ、斯ては始終勝負如何可レ有と詮議区なりける處に、溝江河内入道進出て申しけるは、堀江父子元来智謀の者なれば、小勢の人数をも早晩も持成候故、只尋常の軍しては中々勝利を不レ可レ得、某愚案を巡すに、上番の森の勢を堀江が城へ追入れて、森を此方より奪ひ取り候はゞ、東南西の三方より多勢を以て堀江が舘へ押寄て、悉後の河へ追込こと案の内に覚へ候間、今夜より轟、根上の方へ勢を廻し、明日未明に又取懸て前後より揉合せんに、森の勢よも敗軍せずと云事有まじ。其時大軍一度に憧と付入らば、落城不レ可レ有レ疑と手に取様に云しかば、両大将を始とし、諸軍勢に至るまで異口同音に斯義尤可レ然とて、勇に進て見ける處に、義景の母公は武田中務大輔の息女なり。又小和田本流院真孝内室、堀江中務景忠内室も共に武田の息女にて、三兄弟と聞えけり。殊に景忠の息女は本流院二代の室なり。右左遁れぬ所なれば、叶はぬまでも真孝一乗へ馳参じて、景忠父子全無レ科趣を申歎て可レ見とて、武田中務大輔と諸ともに一乗へ馳上り、涙流して申されければ、抑今度堀江父子が野心の義努々露塵程も跡形なき義に候へども、増るを妬俗ひにて、諸人謀叛と讒ぬれば、御腹立は無2余義1、御道理とこそ存じ候。乍レ去景忠父子に於て聊も腹黒ならざる子細をば中務も真孝も恐らくは起請を以て可2申上1候。然れば罪の疑しきをば惟を軽し、功の疑しきをば惟を重すとやらん云る先言を思召されて、哀御宥免候へかし。其上屋形の御為にも乍レ憚り御縁者の列をも汚候上は何か苦しふ候べき一命の事は是非に両人へ下し給り候べし。左たに候はゞ御腹居には堀江父子、早速山を越さすと義景の母儀諸ともに涙を垂て被レ申ければ、義景も理に折て、此上は右も左も計ひ給へと有しかば、両人謹て拝謝し忝と悦頓て、両大将への御判を頂戴し、御使者と三人打連て金津へとこそ急れけれ。斯て金津に着しかば、御使と中務は堀江が舘に入て、景固、吉家に対面し、御判を渡して件の旨を申聞け、諸軍勢へ触させて急帰陣を催さる。扨真孝法師は本庄へと急ぎ、堀江が舘に入て身に代へて申開き、和談の扱ひ調へたるが、仕付の為に早々他国し給へと有りければ、堀江大に腹立して、我不義の罪有て、斯る恩にも預ばこそ悦しくも存べけれ身に侵す科なくて、無実の讒に沈む事運命とは云ながら、返々も口惜けれ。此濫觸を按ずるに偏に朝倉孫八郎が所為に疑ふ處なし。景鏡元来不道第一の男なれば、常々我勢を妬みつるに、頃日義昭公の御懇意にて式部大輔に任ぜられ、義景の前は云に不レ及、国中の貴賎に被レ仰て靡ぬ草木も無儘に為たり。顔にて景忠謀叛と触れければ、諸傍輩の一同しぬるは無レ力、人間万事皆命数と云ながら、口惜きは只屋形の御計にて留たり。譜代相伝の主君と云、殊には外戚の好みもしるき事なれば、罪の実否をも自身糾明し給てこそ君臣の義も立べきに、何ぞや彼の言、甲斐なき鴟鳥(号偏)烏鳶の奴原に国の大事を打任せて、二心なき忠臣をも加様に亡し給事、生前死後の無念なれ。是がや古き詞に叢蘭欲レ茂秋風敗レ之日月欲レ明浮雲掩レ之人君欲レ正侫臣妨レ之とは今こそ思ひ知られたり。頃は弥生の空らながら、迚も此身は埋木の花咲春にも逢ばこそ堀江が最後の思出に、秘術を尽し戦はゞ、義景馬を不レ被レ出と云事不レ可レ有、其旗本へ怨みの矢一筋射込つゝ、陣中に駆入て尸を戦場に曝んと声あらゝげ、被レ呵けれども、真孝荐に申されけるは左様の存念は以ての外の不覚なり。景忠父子露程も身に誤のなき旨をば中務殿愚僧諸ともに随分申して候へば、屋形もきゝわけ給ひたり。此は当座仕付なれば、やはか帰国のほどあるべき無レ詮、自心の怨の故に、その身を敗るのみならず、余多の士卒を損ぜん事後生の罪も恐しゝ、只人は他の善悪を振舞つゝ身を立て、道を全して主君の大事を相守こそ君臣為臣の遺法にして、且つは縁者一家の甲斐も候べけれ。早々舘を御開き可レ然、愚僧さいわいに小和田をひきこし、加戸円福寺にうつり居候へば、今日はあれまで御越候へと様/\になだめ申されける程に、堀江も岩木に非ざれば、此上は力なしざらば、合戦を止べしとて諸軍勢を召集て名残の暇を出しつゝ其身も他国あるべきなれば、如何にも小勢可レ然と身に代らぬ者ばかり上下七十余人にて直井縄手へ打上り、加戸寺へ入給て、其日は此に逗留あり。翌日廿日本流院真孝朝餉能々取繕、即同道にて北潟に懸つて吉崎蛇(正しくは虫偏に也)島を経て加賀国を打越へて、能登国へぞ退れける。真孝も暫く此に留りつゝ、堀江父子の有様を能見届てぞ帰られける。従来外戚のゆかりとは云ながら、斯頼母舖心底は武士も耻べき始末かなとて、世の人悉感じけるとぞ聞えし。

義昭公自2敦賀1移2一乗1 附密遊2義景屋形1事

斯て国中騒動も漸く静ける程に、義昭公一乗の谷へ入御可レ被レ成とて、永禄十年十月廿一日敦賀を御出有、府中龍門寺へ入給ひ、暫御休息ましまして、其日の亥の刻、一乗安養寺に着御なり。朝倉中務丞景恒路次まで御迎に出つ。同廿三日、義景御禮に被レ参、其體誠に京都全盛の時、管領出仕の儀式にも劣るまじく聞えける。先つ一刻計り前に朝倉式部大輔景鏡烏帽子直垂にて参す。是は御案内のためとぞ良有て、義景装束正して騎馬三人を召具せらる。朝倉出雲守、前波藤右衛門、山崎長門守何れも烏帽子素袍を着して供せらる。頓て御所にて三献の御祝儀有けるが、御相伴は仁木義将、朝倉義景計りにて式部大輔は御縁にぞ伺公せられける。其後義昭公越加和睦の義を被2仰出1ける間、義景不3及2異儀1。去程に同十二月十二日に加州より杉浦が息人質として一乗阿波賀にぞ来居りける。義昭公宣ひけるは両國和睦の其上は、何の隔か有べきぞ、塁塞の有ればこそ種々の違変も出来ぬれ。急ぎ是を焼払へとて、同十五日加州諸城の内、加賀の方の柏野、杉山両城、越前方の黒谷、檜の屋、大聖寺三城を悉く放火仰付られしかば、是よりして北陸道の往還自在に成にけり。同廿五日、義昭公始て朝倉の屋形へ御成り有りけるが、未征夷将軍の職にも備り給はねば、饗応儀式結構必ず無用たるべしと堅仰せ下されしかば、密々の御成りとぞ聞えける。去れども辻堅めの次第献々の御進物何れも式正の御成りに不レ異して、十一献までぞ奉りける。御相伴は仁木義政、朝倉義景計りなり。義景先づ御成りの御禮として助吉の太刀一腰を捧給ふ。其後御盃始りしかば、義景進上の品々初献御太刀一腰(経家)御馬一疋(鴇毛)三献香合(金絲花)御盆一枚(堆花鳥)五献御太刀一腰(光忠)御腰物(信国)七献三物御太刀一腰(一文字)御腹巻一領、此時義景御剣御腰物拝領の御禮として、御太刀一腰(貞綱)奉らる。九献御太刀一腰(長光)此時御立有て於御座敷御絵一幅(舜擧筆)御盆一枚(堆紅)義景の御子息より御太刀一腰(康光)御馬一疋(黒毛)同御盃頂戴の御禮として御太刀一腰(長光)扨又御劔御馬拝領の御禮として御太刀一腰(光旨)進上せらる。斯時義昭公朝倉九郎左衛門入道伊册に頭巾を御免ありければ、其御禮として青銅一万疋を献上す。子息中務大輔其外朝倉孫三郎景健以下の一門、各御縁に伺公す。中にも朝倉式部大輔景鏡は其伊册と座論に依て、此席に不レ列云々
斯て義昭公御機嫌能終夜の遊興なし給ひて、翌朝辰の刻に御帰とぞ聞えける。

義景母儀任2二位尼1 附義昭公見2南陽寺糸桜1事

永禄十一年三月八日、義昭公義景の母儀を奬て二位の尼に任ぜらる。是は武田中務大輔の息女なり。将軍家即彼尼公の宅は御成有つて、終日終夜の遊宴あり。辻堅め御門役甚厳く沙汰しけり。其夜折しも雨降て、警固の面々も皆紅袖をぞ濡ける。初献の進物盆香合、三献建盞同台、五献香炉御盆一枚、七献十帖一面、九献酒器、十一献練貫十面白綿十地進上也。服部彦次郎并一若大夫等御能をぞ勤ける。斯て終夜の宴過て、翌朝辰の刻にぞ還御也ける。爰に朝倉屋形の艮に美景無双の名境南陽寺と号するあり。地形従来幽奇にして、眺望殊に勝れしかば、繁栄尤盛なり。加レ之庭前に糸桜あり。麗華爛漫として恰も大真が笑を含み、濃香芬芳として常に西施が匂を留しが、時しも三月下旬開敷の最中なりければ、義昭公高駕を担て終日御遊覧被レ成るゝ諸臣とともに、倭歌を催されし其列には、仁木義政、朝倉義景、大舘治部大輔晴忠、上野陸奥守信忠、一色播磨守晴家、同式部大輔藤長、佐々木治部少輔高成、武田治部少輔信堅、伊勢宮千代、大舘中務少輔信実、武田刑部大輔、一色四郎秋教、三淵弥四郎秋家、一色三郎秋成、椙原長盛、上野中務少輔秀政、飯河信堅、安蔵々人泰職以下糸桜の題を賜て、各一首を連ねけり。今其和歌を挙て曰く

  • 諸ども月も忘るないと桜年の緒長き契と思はゞ 源義昭公
  • 永き日も覚えず暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜哉 仁木義政
  • 夕月夜暫し休へいと桜花は斜にむすほうれ宛 喝食明慶
  • 人伝ば物かは懸るいと桜いと咲花に春の夜の月 一色藤長
  • 専女の手引糸桜ら見る我さへに心みだれつ 一色晴家
  • 花盛さらぬ草木も糸桜糸より懸て匂ふ春風 一色秋教
  • 桜花枝もたわはに糸はへて木の間洩来る春の夜の月 佐々木高成
  • 夕月夜ほたく庭のいと桜いとゞ色香も殊更にこそ 大舘信実
  • 帰るさを何とゆうべの月の影いとゞ色添花の木の本 大舘晴忠
  • 打はへて風にかたよるいと桜こやさを姫の花の衣か 武田信堅
  • 折を得て今日咲花は君が為今一入の色やそへけん 上野信忠
  • 今ぞ知る柳が枝も梅が香も願ひ悔しき糸桜かな 椙原長盛
  • 夕風の薫れる袖の月懸て靡く桜の花の木の本 伊勢宮千代
  • 香計は結び留めよいと桜乱て花は散尽すとも 上野秀政
  • 君が代の時に相逢いとさくら最も賢き今日の言の葉 朝倉義景

此外供奉の輩雖3各有2倭歌1事繁ければ、先其一二つ記のみ

義昭公被レ為レ成2于朝倉屋形1次第 附御能事

同年四月上旬、二條の関白晴良公、義昭公を御見廻として都より密に越前国へ御下向有けり。去に依て国主義景関白殿御馳走の為め、且は義昭公御慰の為にとて、同五月十七日御成をぞ申請られける。日限既に極りければ、義景荐に催促して至極の設を致されけり。先御門役の次第西の門には山内九里、北の門には諏訪神左衛門、近藤、中門には大日備中守、窪田左近将監、同辻固の次第、大橋の通に魚住備後守、柳の馬場に青木隼人佐、坂野の小路に桜井新左衛門、上坂の橋の通に氏家左近将監、遊楽寺の前に山崎小五郎、三輪の小路に真柄備中守、笠間の小路に真柄左馬助、川合虎福、魚住前に富田民部丞、魚住彦四郎前に北村平次左衛門、河原前に杉若藤左衛門、木戸の本に福岡智千世、詫美前に佐々布光林坊、斎藤前に佐々布左京亮、小林三郎次郎前に千秋因幡守、同左京亮、くらかり谷に堀平右衛門、森前に瓜生孫六、同孫四郎等、各々綺羅を瑩て勤番す。遠近の貴賎関白将軍同途の御成拝んとて傍らに付し、巷たに満て頓首膝行、今日を晴とぞ見えにける。出御は十七日の午の刻に極りける程に、二條殿先御出有けるが、御装束は紋紗の狩衣の御袖に金の紋ありけるに、空色の指貫の藤の丸の御紋縫たるを被レ召て、御立烏帽子を被レ着けるが御輿の前後三十四人頓て朝倉の舘へ入せ給て、表の南戸にぞ御座ける。扨義昭公出御の少し御先へ仁木、一色以下の面々二十余人列を正して参らるゝ。其次に義昭公通らせ給ふ。御装束は白き帷子に香の直垂を着せられ、立烏帽子召れつゝ金作りの御腰物を携へ給ふ。御劔は上野陸奥守信忠持参仕らる。御先へ騎馬衆六人、御走衆六人、御輿の左右に諸侍同朋衆其外御小人以下に至まで都合百余人前後を囲んで守護しつゝ、御輿の翠簾を下して通らせ給ふ。既屋形に著御、義景謁見畢て後、公方端の座頁馬の間にて、或三献を始給ふ。御荷用は大舘、上野、一色、朝倉計也。各白太刀にて御禮有て後、御杯頂戴、三献相過て御馬進上の時、義景并公方衆何れも射場に伺候侍、御馬牽るゝの節、御簾上て義昭公立ながらに御馬を御覧ぜられ、其後奥の座敷十二間へ成せられけるが、御縁へ大舘罷出て請申されける間、即二条殿も件の座敷へ入らせ給つゝ御座の内には、義昭公、二条殿并仁木、朝倉、四人なり。斯て御杯始りしかば、義景、義昭公へ進上の品々初献御太刀一腰(真守)御馬一疋(河原毛)朝倉式部大輔景鏡取次、御次の間より義景請取て直に進上、二献三献御太刀一腰(秀次)御小袖十重、練貫引合十帖、太刀、朝倉孫三郎御次迄持参、義景直に進上、小袖は朝倉次郎左衛門持参、大舘晴忠請取て披露、引合は朝倉出雲守持参にて是も大舘披露なり。三献の後朝倉一門の面々御馬太刀にて謁見の次第、一番朝倉式部大輔、二番朝倉孫三郎、三番朝倉次郎左衛門、四番朝倉孫六郎、五番同修理亮、同掃部助、同出雲守、次鳥羽右馬助、同次郎右衛門、同小三郎、同駿河守、三段崎権守、溝江大炊助、同三郎右衛門、同左近衛門也。四献之時、大舘楽屋へ行て、御能可レ始由を申さる。斯て御能始りしかば、義昭公御簾を揚させ給て、二條殿とともに御見物也。役者の次第、翁は鷲田、せんさいは小泉新七郎、さんはさは栂新次郎ぞ仕ける。大夫は服部彦次郎、脇は三輪次郎右衛門、神主権少輔、福岡四郎右衛門、つれは半田源左衛門、小泉弥七郎、笛は青木七郎三郎、千秋又三郎、阿波賀藤四郎、小鼓は前波五郎右衛門、大鼓は上田六郎兵衛、太鼓服部兵部丞、此外斎藤与七郎、桜井新三郎、氏家弥三、并に金山藤林、壁田、山本、千秋、上野、森宮、石藤、古沢の某等、各芸をぞ尽ける。五献香合(堆紅紋松人形)、御盆一枚(堆紅四角紋花鳥)、伊勢宮千代披露す。六献七献御太刀一腰清綱、御腹巻一領三物前を一色少輔、後を一色播磨守持て披露す。八献御銚子一色播磨守、御提子上野陸奥守なり。二條殿聞召るゝ時、仁木義政御肴を参せらる。即件の御盃を義政頂戴。其後時忠、義景次第に頂戴せらる。次に孫三郎、次郎右衛門等、被2罷出1。九献御銚子一色式部少輔、御提子一色播磨守なり。進物紅の糸十斤、盆一枚、桂章地紅四角紋楼閣なり。人形のある盆にするは、大舘持参して披露せらる。十献御銚子義景、御加へ仁木義政なり。義昭公聞召るゝ二條殿御肴を進ぜらる。其後二條殿聞召れて、義政に指せらる。即御肴を下され、又義景へ遣されて、御肴を出さる。其後義昭公別座へ御移り、二條殿も御座を立せ給ひける程に、義景又御酌にて御供衆部屋衆御走衆其外悉御通有之朝倉の同名式部大輔孫三郎、次郎左衛門等皆御通参らる。十一献御太刀一腰(貞長)御腰物(秋広)進上、十二献御銚子上野陸奥守信忠、御加へは大舘治部大輔晴忠、二條殿被2聞召1時、義景御肴を参せらる。其後義昭公御受、仁木御肴を奉らる。義昭公件の御盃を義景へ下されて手づから御肴を賜ふ。十三献御絵一対(皇帝筆山水人形)御盆一枚(堆紅四角紋唐子)并金銀百両盆に居て進上、十四献十五献沈香のほた御盆一枚(堆紅四角紋花色々)三つほしの御盃台参る。義昭公聞召時、義景御肴を献ぜらる。其後二條殿被2聞召1、此時先御馬太刀にて御禮申上たる朝倉の一族に御盃を下さる。十六献十七献御太刀一腰御物也。谷丸と号す。其時義景も亦御劔拝領ありければ、其御禮として又御太刀一腰(雲生)献上あり。次に義景の子息阿君殿も亦御太刀一腰(助定)御馬一疋(鴇毛)指上らる。其後朝倉家来の輩御馬太刀にて御禮申上たる次第、前波藤右衛門、魚住備後守、桜井新左衛門、青木隼人佐、詫美越後守、山崎長門守何れも十二間のさいの内にて拝謁し奉る。件の折紙をば大舘持参してぞ披露致れける。次に御縁にて仁木、朝倉、大舘、上野何れも順の舞を初らる。此間二條殿の御盃を義昭公聞召れ、御盃を置せられて、義景へ重て舞を御所望あり。扨彼御盃を二條殿へ返させ給ふ。是より又次第に舞るゝ人々は一色式部少輔、同播磨守、佐々木治部少輔、武田治部少輔、同刑部大輔、伊勢宮千代等各曲をぞ尽されける。斯て夜明方に成しかば、義昭公の御盃を義景頂戴、自御肴まで下されて、御酒宴は既に止にけり。義景、翌十八日の朝餉能に取繕はれしかば、二條殿も義昭公も御機嫌殊に宜て、巳の刻に各還御被レ成しが、義昭公は御輿の翠簾を左右ともに打上て通せ給しかば、道俗貴賎又辻々に充満して手を合てぞ拝ける。斯りしかば義景も又早速御所に伺公し、御禮懇に尽して帰られけり。同廿日義景又改て公方家の人々を招請せらる。其列には仁木、細川、一色、大舘、上野、佐々木、武田、伊勢、三淵、杉原、飯川、安蔵此人々を初とし、今度御成供奉の輩を悉く饗応して丁寧を尽されつゝ、一若太夫に能を仰付られて、終日の興を催されけり。同月の下旬二條殿朝倉の舘へ御成あり。是は御上洛の御暇乞とぞ聞し、六月廿二日義昭公へ義景を被レ召ける。当日は近くに一鷹司の外公方家へ被召事は雖無之別儀を以て如レ是、即服部彦次郎に御能など仰付られて、奔走、尤美尽させ給ふ。されども其比都より毒薬下りける由、世上に取沙汰ありければ、小大となく用心あつて互に心を置れける程に、御酒宴も興なくして、早速相済ける由申合けり。

義景嫡子逝去 付義昭公移2美濃1事

頃日の御遊覧も皆同治天下平なるの験なりとて、里櫚の民まで悉悦合ける折節、有為転変の俗ひとて跼蹐にたも堪かたき義景の歎ぞ不慮に出来ける。其故は六月廿五日屋形の一子阿君殿の御乳の人、忽頓死しけるが毒害の由をぞ人々申合ける。其乳味を呑給る故か、同日の暮程より阿君殿頻に病脳し給ける間、谷中少功奇誉の名醫秘術を尽て、配剤心底を振ひ霊験智能の高僧肝膽を祈念、身の毛をよだちけれども、仏神の恵も更に夏の日の光程なく、暮果て浅茅生の末葉の露と諸ともに、遂に空く消給ければ、国中の老若五更に燈尽き中流に舟を失ふ心地ぞ。御内外様の大名小名愁、涙を浸しゝ余所の哀を催けり。父義景は天に叫、地に転て、目も呉竹のふし沈み、末の世までも頼少く思連て歎せ給ふ御有様、譬ん方もなかりけり。誠に国々の尊神奇仏に祈つゝ、四十に及て儲給へる男子なれば、優曇華の開き出たる風情にて、荒き風にも当てまじと明暮心を尽されしに、若る不思議の別に逢給へば、悶給も理なり。御乳親の福岡石見守も哀みの余りに元結切涙を流て申けるは、過し初春の頃色能梅花の進ければ、長やかに取せ給ひ、其花を御乳の人の鬢に指せ給けるを、某梅花を折て頭に挿と申す詩の意をば誰か教参せて候ぞと戯れ申ければ、何心もなく打咲せ給ける御容顔を夢にも争てか、見奉べき哀かなや。嬋娟たる花月の御姿優艶なりし金玉の御声をば現にも、扨如何は留申べきとあこがれけるぞ。哀なる又御守の堀平右衛門も髪切、寺に馳入て、掻口説申けるは、年来膝の上の御眠の御容止、朝夕抓撫参せつる翠の髪の御風情、蓬鶏竹馬の御戯に至まで、いつの世にかは忘るべき冥途如何なる極ぞや。紫燕の翅も至る事あたはずして、愁歎の劔は空く腸を断ち、恋慕の涙は徒に面を洗ふ計なり。浅猿き浮世かなとて忽に倒臥て、歎焦れし有様を見、人は申に及ず、聞人々に至まで実理の至極とて、余所の袂をしぼりけり。抑此毒害の事如何なる人の所行ぞと尋るに、阿君殿の御乳の人の乳既にかれて垂さりける程に、時々をさしが乳を進けるに、此乳を呑給て御機嫌も能、最健に成せ給しかば、此乳こそ若君に能ふさいたるなと人々申ける間、彼女房思けるは、所詮御乳の人だに殺なば、我其役に備らん事疑なし。左あらば此身の栄花は云に及す子孫眷属の行末までも然るべしと思ふ心を種としてをさしが所為とぞ聞へける。誠に無レ墓女のしはざかなと貴賎なべて悪ぬ者はなかりけり。去程に義景、彼夫婦其外若君に奉公の女房四五人を搦捕、神前に於て湯起請を取すべしとて、新に釜を塗つゝ炭薪を以て焼立せて給ければ、黒煙天に靉て湧上る湯の音はさながら怒濤の岸打響に不レ異。即彼女房共を引出し、警固の武士共立並て、棒を振揚、早々取れと無下に責ける有様は、譬ば焦熱地獄の罪人を獄卒共が寄集り、鉄棒を以て呵責すらんも、是には過しと恐くて身の毛も堅計なり。案の如く彼をさしか禍一定にてや有けん。忽に其手焼て絶入ければ、扨こそ科は顕れたる大逆罪の者なれば、末代の見懲に、猶々きやつら責よとて、日々夜々に水火の責を成れつゝ、彼夫婦は云に及ず、其末々の部類までも尋求て亡されしは、理とは云ながら、無慙なりける事共なり。去程に義昭公は情々案給ふ様、我暫越前に滞座すと云へども、年不慮の騒動のみにて国家もいまだ平治せず。況や又思の外なる義景の愁傷さへも出来ぬれば、彼と云、此と云、義景力にての御上洛は叶まじとや思召れけん。内々尾州の織田上総介信長と仰合れつゝ、一先美濃国へ御遷座あるべきにぞ極ける。抑此信長と申は先祖は武衛の家臣にて越前の人なりしが、中比尾張に移住して四人の奉行に備し、其随一の子孫なり。信長の代に至て弥猛威を振つゝ座ながら、尾州を討従へ、剰濃州までを切取、両国を并呑して勢益慕しかば、義昭公御頼有たるも理とこそ聞えけれ。義景も再三留たてまつらると云とも、是非御越可レ被レ成との旨にて、今茲永禄十一年戊辰七月下旬、既に一乗の谷を出御ありしかば、義景も力及給す。此上はさらばとて路次まで御供申さるべきに相定られけれども、此間の歎も未尽ざるに、所労の心地も重かりければ、其さへ叶がたしとて、同名中務大輔景恒家の子前波藤右衛門景定に仰て、江州境まで送奉せらる。両人命を蒙て景恒が勢二千余騎にて余呉の庄まで御迎に馳参ける間、景恒、景定も是より御暇賜て帰りけり。斯て七月廿五日、既濃州に着給しかば、信長の計として立正寺へ入参せて、昼夜警固し奉り、同廿七日、信長岐阜より出仕にて、義昭公へ謁見し給けるが、国綱の御太刀一振、葦毛御馬一疋、御鎧二両、沈香一折、縮百端、鳥目千貫進上せられ、其外御供の人々にも無2残所1執行れて、諸事の談合占給ひつゝ、頓て帰城し給ひけり。

朝倉始末記巻第四終

(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
底本には濁点、句読点は無く、読みやすくするために濁点、句読点を附すとともに、カタカナ文をひらがな分に変えてあります。