隆慶遊女名鑑
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隆慶作品に登場する遊女およびその他の遊女名鑑。
いにしえの遊女(含白拍子・舞女等)名
妓王(ぎおう)
『平家物語』「妓王」に現れる白拍子。
平清盛の寵愛を受けるが、新たに現れた「仏御前」のためにその寵を失い、母、妹とともに剃髪し、洛外の地に庵を結び閑居した。
『源平盛衰記』にも同様の記述が有る。
その母「とぢ」妹「妓女」そして妓王のライバル「仏御前」の名が、後白河法皇の建立した持仏堂「長講堂」の過去帳にあるという。この過去帳は法皇の自筆と伝えられている。その本文を引用した『略解』には歴代天皇の名の後に「為朝、為義、閉、妓王、妓女、仏御前」という記載がある。
また妓王・妓女についての記述が『常山楼筆餘』にも有る。
妓女(ぎじょ)
『平家物語』「妓王」に現れる白拍子。妓王の妹。
『源平盛衰記』にも同様の記述が有る。
仏御前(ほとけごぜん)
『平家物語』「妓王」に現れる白拍子。加賀国出身。
「ぶつごぜん」「ぶつごぜ」とも。平清盛の寵愛を得て、その妾となるが、やがて捨てられ自分が現れたせいで寵を失い、都の外れでわび住いしていたライバル「妓王」の元へ行き、共に念仏生活に入る。
静御前(しずかごぜん) (?~1189)
白拍子。磯禅師の女。
源義経の愛妾となり、壇の浦の合戦後、文治元年(1185)、義経が頼朝と対立して都を逃れると、吉野まで同行したが、そこから京に戻る途中捕えられ、翌年鎌倉の頼朝の元へ送還され尋問を受けた。鶴岡八幡宮で、頼朝夫妻の前で義経を慕う舞を奉納、その後、義経の男子を産むが、この子は直ちに殺され、同じ年に京へ帰洛。(『舞の本』解説)
文治五年(1189)、義経が奥州藤原氏のもとにいる事を知った静は、義経を追って奥州に下る途中、武蔵国で義経の死を知りその地にあった高柳寺に入って菩提を弔うが、まもなく義経の後を追うように病に没したという伝承がある。その静御前の墓が埼玉県の栗橋に有る。
島の千歳(しまのせんざい)
「和歌の前」と共に白拍子の祖といわれる。
性別不明。一般には女性とされるが、「白拍子舞」が女性の舞となるのは、男性の舞の後で、その間に男女の舞が有ったとも考えられる。
『平家物語』「妓王」の項参照。
和歌の前(わかのまえ)
「島の千歳」と共に白拍子の祖といわれる遊女。「若の前」とも書く。
『平家物語』「妓王」の項参照。
妙の前(たえのまえ)
江口の君と呼ばれた遊女。
六条天皇の仁安二年(1167)秋十月、四天王寺詣でを終えた西行は、その道すがらに東国への旅立ちを思い立って江口の里へさしかかる。ところが、にわかに一点がかき曇って、大粒の雹雨が、沛然と降り始めるのである。(略)西行は、やむなく時雨待つ間の仮の宿りを求めようとしたが、あたりには、妖し気な賎が屋ばかりが軒を連ねて、江口の里の色街とは、まさしくかようなところであろうかと思わせる風情であった。(略)西行は、漸く意を決してかたわらの賎が屋の閾をまたいだ。「にわかの雨に行きくれておる者、是非とも一ときの雨宿りをお許し願いたい」だが、西行の僧形を見てとった主の遊女は、容易に許す気色をみせなかった。「この屋は、あなたさまのまいられるところではございませぬ」主の遊女は、四十余りにもなろうかと思えたが、よほど信心深い女であったに違いない。その声には、怒りにも似た響きが籠められていた。
西行は、何とか口実を設けては遊女達と浅からぬ縁(えにし)を結ぶ破戒僧に見粉われたことを口惜しく思い、
世の中をいとふまでこそかたわらの 仮のやどりをおしむ君かな
と、詠み捨てて、降りしきる宵時雨の中へ立ち去ろうとした。すると、主の遊女は、初めてほほえみを面に浮かべ、
世をいとふ人としきけば仮の宿に 心とむなと思ふばかりそ
と、詠み返して、急いで西行を賎が屋の内に招じ入れた。(略)西行は、心を打たれ、しばしのやどりにと思ったその賎が屋に脚を止めて、主の遊女と、何くれとなく一夜を語り明かしてしまうのである。「わたくしは、平資盛の娘で、妙の前と呼ばれておりましたが、平家没落の後は、乳母を頼ってこの江口の里へまいり、いつしか遊女にまで身を落して世過ぎをいたしておりまする。(略)」女はそう言って、さめざめと泣く。西行も、その身の上話に心を揺さぶられて思わず墨染の袖をしぼった。(中略)
西行と語り明かした一夜以来、遊女妙は、尚のこと現世(うつしよ)の儚なさが身にしみるようになった。(略)妙は、それ以後、遊女としての振舞いを断ち、小高い淀の堤に佇んでは、またの日の再会を契って立ち去った西行への追憶にひたるのだった。(略)江口の遊女は、都の公卿や貴族達と接する機会が多く、立居振舞にも雅やかな一面がそなわり、歌詠みなども自ずと身についていたと言われるが、妙は、もともと平氏の出であり、己の無為な生き方を省みる自負心だけは、やはり捨て切れなかったに違いない。(略)晩年の西行が、諸国行脚の脚を止め、落東雙林寺に庵を結んで歌道専一の日々を過していることを伝え聞くと、妙は、ついに一念発起して仏道への帰依を決意する。(略)西行は、手ずから普賢菩薩の木像を彫り、江口の里近くに普賢院を開いて妙を住まわせ、その寺院を「君ケ堂」と呼んで何くれとなく力を添えた。(略)
江口の君堂は、元弘・延元の乱に焼失し、正徳年間、普賢比丘尼が再建して現在に到っている。
現在の江口の君堂は、正しくは宝林山普賢院寂光寺と言い、代々尼僧の住持する尼寺とされている。(近藤精一郎『君塚西行塚』歴史読本1968年8月特大号)
江口の遊女妙と旅人西行の有名な歌のやりとりである。『新古今和歌集』にも採られているが、『山家集』のそのくだりを見てみよう。
天王寺へまゐりけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿を借りけるに、貸さざりければ
世の中をいとふまでこそかたからめ 仮りの宿りを惜しむ君かな
返し
家を出づる人とし聞けば仮りの宿 心とむなと思ふばかりぞ
『新古今集』では、この返しの歌に「遊女妙」という名がついている。江口は淀川と神崎川とを運河で結んだ合流点近くの地名(現在、大阪市東淀川区)で、神崎川河口の神崎と共に交通の要衝であり、遊女が多かったことで知られる。そうした遊女の一人と、ここを通りかかって雨中の宿を借りようとした西行の問答歌がこれである。
西行ー「この世を厭離し、出家するのはむずかしいかもしれないが、この世のかりそめの宿を貸すことまで、おまえは惜しむのだね」
遊女ー「いいえ、あなたがご出家だと伺ったので、こんな仮の世の宿などにお心をお留めにならないように、と思っただけですわ」
現在でも、この西行の故事に基づいて江口君堂とよばれる寺がある。日蓮宗の宝林山寂光寺という尼寺で、遊女の墓が多い。遊女妙の墓もある。この問答は大いに語り伝えられて、『新古今集』のほか『撰集抄』『西行物語』などでも語られ、謡曲『江口』を生み、はるかに下って長唄『時雨西行』になった。(高橋英夫著『西行』)
歴史用語事典《色里の部》【江口の君】の項参照。
虎御前(とらごぜん)
「とらごぜ」とも。鎌倉時代の相模国大磯の遊女。
『曾我物語』によれば、伏見大納言実基の女で、母は大磯の長者といわれている。容姿端麗、和歌にすぐれ、曾我兄弟の兄十郎祐成の愛人となり、富士の裾野での曾我兄弟の仇討の後尼となり、信濃善光寺に赴き、その後大磯の高麗寺、紀州熊野に住し、寛元三年(1245)に没したと伝えられる。(『伽婢子』2人名索引)
力士(りきじ)
[力士と云ふ浮女]
○佐藤忠信がしたしむ所の女を力士(りきじ)と云ふ。浮女の類ならんか。昔の浮女の名このたぐひおほし。夜叉又は仏姫法師(伊藤梅宇『見聞談叢』)
京島原の遊女
和泉(いずみ)
京島原の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「和泉伝」有り。
奥州(おうしゅう)
京島原の太夫。一文字屋七兵衛抱え。
「みちのくの千引の石と我恋と、いづれくらべん思ひ種と、しばし立寄り詠め申すに、面体難なし。とつと利発なるゆへ、新造とは見えず。功齢へたる上らうにも、是ほどに無きが侍り。猶行末や、名にし負ふ奥州おくゆかしき上らう也。又例のわるじやれめがぬかす事には、心だてほめられず。大平なりとて、よもの上臈つきあひにもしかると申し候。申すまでは無けれど、御たしなみ肝要々々。おくゆかし名におふしうはつぼむ花」(『朱雀遠目鏡』上)、「手跡見事。文章意有りておくゆかし」(『朱雀信夫摺』上)。(『好色一代男全注釈』)
大橋(おおはし)
京島原の遊女。扇屋四郎兵衛抱え。本名律。
遊女大橋
都島原の遊女大橋、実の名は律、(もと彼所に大橋といへる名妓あり。うたよみ手書ぬるが、その手ことによければ、大橋やうといひていまに伝はるよし。此妓もその名を嗣るとなん。)よろずみやびを好めり。さばかりの女なれば、中々につひのよるべもなかりけらし、尼にならんとおもへるを、老たる母のためきかにとためらふほどに、栗原一素といへるは、世のすねものにて独あるを、よき戯がたきなるべしと人あわせけり。其家いとまどしければ、手づから雑事ども取まかなふに、猶うた物がたりを見ながらぞ飯をも炊きける。(略)
此妻、人に語りしは、都の四方にて景物のよき所々、月をみるには聖護院殿の東北に松の三本ある丘、ちどりを聞には五条のはしより下、夜深くなりては花頂山のふもとよし、水鶏はおむろの前、ひばりは朱雀野とぞ。其すざか野と五条のながれの下は、己もよくしりて、其言のたがはぬをおぼゆ。聖護院殿のめぐりもうちはれて、すべて月にはよき所也。松のある所はさぞなん。なほこゝろむべし。(『近世畸人伝』)
島原中之町南側の西端から四軒目の扇屋四郎兵衛抱えの太夫。「大橋 流を立つる大橋や、指し捨て舟の泊りを知らぬ身の行方。ふりやれおふりやれ、いちがやうにふりやれ。かけし情は身にしる雨じや。悋気すぎたも此歌なるぞ。廓住居もするからさては、歎きながらも月日を送る、恨みられたり恨みも云ふて、交す枕も数々なれや。強き敵かな、つなぎ求めて、新造舟をば揚屋ゑ着けて、時をも知らぬ乱舞には、三国一もよふござあんしよ」(『古銀買』延宝八年刊)「又大橋をぬるきやうに申せしに。さる此里の男。是もさしわたして。くどきしに。申分至極して。合点は仕ながら。只今宿にかへり、よく分別して。御返事をとむ所へ、まもなく来て。揚屋は世わたりのさはりと。人も聞程に異見して。前後一度の思ひをはらさせけるとや」(『諸艶大鑑』六の三)。(『好色一代男全注釈』)
かほる(かおる)
京島原の太夫。「薫」とも書く。上林家抱え。
葛城(かつらぎ)
京島原の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「葛城伝」有り。
金太夫(きんだゆう)
京島原の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「金太夫伝」有り。
左門(さもん)
京島原の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「左門伝」有り。
三夕(さんせき)
京三筋町の太夫。上林五郎右衛門家抱え。
高橋(たかはし)
京島原の太夫。
野風(のかぜ)
京島原の太夫。揚屋町大坂屋太郎兵衛抱え。
初音(三代)(はつね)
京島原の太夫。島原上之町上林(本姓)五郎右衛門家抱え。
三代目初音の諱は諦子。幼名ふり。禿にならず突出しの太夫となる。延宝九年の『おもはく哥合』に「名にし負ふ初音の松はうつゝにて 逢はで幾夜のしぎの羽がき」と詠まれ、その評語には「初音と申し奉るは、かたじけなくも、上林のうちにその名をあらはし、聞く人枕を傾け、雲井にあこがれ、見る者足の踏むべきやうを忘るゝなり。されば同じ内なれば、金太夫と光を挙屋に輝かし、位を廓に争ひ、全盛誠に日に新に日に日に新にして、世界の珍物。有頂天のぞめきども、我劣らじと、遊宴の日をあらそひ、挙屋の着到に付かんと集る事、火の乾けるに付き、水の低きに下るが如し」と書かれた。延宝八年末頃に退廓、あるいは死亡したと推定されている。(『好色一代男全注釈』)
初音(はつね)
京島原の太夫。杉山家抱え。
『色道大鏡』に、漢文の「初音伝(杉山家)」有り。
初音(はつね)
京島原の太夫。宮島家抱え。
『色道大鏡』に、漢文の「初音伝(宮島家)」有り。
花咲(初代)(はなさき)
京島原の太夫。花崎とも書く。中之町井筒屋九右衛門家抱え。
初代の花咲(花崎)の諱は仇子。大坂から島原に移り、寛文三年十月二十五日に天職に出世。その後、下之町北川(桔梗屋)喜兵衛家抱えとなり、同十一年十月二十七日太夫となる。延宝三年五月八日に退廓、京都に住み同五年三月二十五日剃髪。
「出水烏丸のあたりに、伊勢屋の助という大尽がおりました。島原に通いつづけて、揚屋の松屋の座敷で、桔梗屋の花咲という女郎に、花咲の水揚げの日から馴染んで、今にいたるまで深く言いかわして、この男以外には花咲も心から体を任せません。為になる客を袖にして手紙のやりとりさえおろそかにしますので、いつとなく客もつかなくなり、紋日に来てくれる客もなくなりましたが、それを皆この助が引受け、粋の限りを尽して花咲一人に打ちこみますので、二人の間が少しは評判になりました。ところがこの花咲は気の強い女郎で、世間の噂はまるで気にせず、生爪をはがし、焼金をあて、入れぼくろをし、せいいっぱいに助に心中を立て、この上は命もいらぬという心根です。心がそうであるだけでなく、花咲は体つきがぽっとり柔かく、腰つきに何とも言えぬ色気があり、床では塩屋長次郎も及ばぬほどの自然の妙を備え、どんな客も礼拝して着物をぬがすという、ふしぎな上作の持ち物を持っていました。
そのうちに助が一年近くばったりと花咲のもとへ行かなくなりましたので、花咲は気が気でなく、卸せ(遊里通いの駕篭屋)の所まで毎日三度ずつ手紙を送って、助の所まで届けてもらいますが、手紙はおろか返事の言伝さえありません。逢えない悲しみにうち沈んで、毎夜おおかたは涙で明かし、勤めも今は気に染まず、どうしようか、こうしようかと案じているうちに、冬も十一月、時雨れが降り少しは肌寒い夕暮に、紙子一枚を着て破れ編笠をかぶり、樫の木の棹の破れ三味線を持って、長い刀をさした与作、肩肱怒ってやっしっし、とふるえ声をして門口に立った乞食芸人があります。「乞食が無用の色好み、往来の邪魔になる。あちらへ行け」と遣手にとがめられて、この男がすごすごと出て行く姿を、花咲は眼が鋭く格子の中からちらと見つけまして、今のはたしかに助様じゃ、と人に頼んで聞かすまでもなく、走り出てこの男の紙子の袖にすがり、二人は顔を見合わせわっと泣き出しました。ここは人目につくからと、土間の中戸の暗がりまで連れこんで、「これはどうしたお姿か」と問います。助は恥を捨てて、「落ちぶれることも知らず、返す当てもない金銀をつかって、一度つまずいたら次々に商売もうまくゆかなくなり、もとに帰る手だてもないままに次々と失敗して、今はこの身一人を暮らしかねて、晩に食うだけの蓄えもない有様だ。それでいて命が惜しく、身を投げて死ぬこともできず、あるに甲斐ないこの姿で生きていることを察してくれ」と、紙子の糊もとけるほど涙を流して語りました。花咲も、「そんなこととも知らないで恨んでいたのが、情けのうございます。金に詰まって惚れた者の中が絶えてしまうのは、世間にたんとあること。七転び八起きと申しますから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もございます。それほど御嘆きには及びません。私はただ御命のつつがないことが嬉しゅうございます」と、いろいろと励ましてすぐに揚屋へ連れて行きますと、松屋でも馴染客の助を待っていたことですから、これは、これはと驚きながら、前に世話になったことを忘れず、冷えましょう、とまず火燵を用意して、昔にかわらず二の膳のもてなしで、その場で花咲と盃をかわさせます。助も困惑しながら、都の情けにほだされて紙子をぬぎ、用意された、香を焚きしめた緋無垢の着物に着替えましたが、その姿は嵐三右衛門の名残の狂言の舞台姿にそっくりでした。花咲もいつもよりは嬉しそうな顔つきで、目もとの愛嬌は捨値にしても千両二分の値打、いらない金はないものか。身請けしたいと思わぬ者はないほどでした。その後花咲の働きで松屋一家が世話をし、助には出口の茶屋の株を買って与え、助は平野屋七と名を改め、花咲のためには間夫の本尊ともいうべき男と噂し、しだいに平野屋は繁昌して、夜昼客の絶え間もありませんでした。それにつけましても、花咲の見事なふるまいは、極楽の色里で歌舞の菩薩のふるまいも、これ以上のものではあるまいと思われることです。」(『元禄太平記』)
花咲(二代)(はなさき)
二代目花咲は、桔梗屋抱えで、諱を羨子といい、禿名は友之丞。仇子花咲に仕え、延宝二年九月十一日に出世して天神となり、初崎といったが、仇子退廓後、花咲と改名し、延宝五年七月十七日太夫に出世した。(『好色一代男全注釈』)
藤江(ふじえ)
京島原の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「藤江伝」有り。
紅扇(べにおおぎ) 花と火の帝
六条三筋町の太夫の名。
高司信尚の馴染み。
ぼんぼり 花と火の帝
山口屋抱えの遊女。佐藤良順の馴染み。
三笠(初代)(みかさ)
京島原の太夫。杉村太郎兵衛家抱え。三笠は諱累子、禿名きち、大坂で出世し、寛文四年四月島原に移って太夫職になった。
この杉村家は、当初大坂新町で営業していたが、万治三年に伏見柳町に移転し、さらに寛文四年島原に移り、翌五年三月に奥村三四郎家旧宅を求めて定住した。『色道大鏡』四に「江戸の勝山。京の三笠・蔵人」とあるように、奴女郎として有名だった。退郭は延宝二年五月とされている。
三笠(二代)(みかさ)
京島原の太夫。杉村家抱え。諱起子、禿名権作、延宝七年三月太夫職に出世。
三笠(みかさ)
京島原の太夫。喜多八左衛門家抱え。諱莪子、禿名左馬の丞、延宝五年三月太夫職に出世。
唐土(もろこし)
京島原の太夫。島原中之町一文字屋七兵衛抱え。
寛文十一年正月朔日に太夫に出世してから「太夫の内にては、上座の宿老碩徳なり。昔にひきかへ、おもざしもかはりたるやうなり。目もとおちくぼになり給へり」(『朱雀遠目鏡』上)と評されるほど永年勤めていた。(『好色一代男全注釈』)
八千代(やちよ)
京島原の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「八千代伝」有り。
吉野(よしの) (1605~1643) 花と火の帝
吉野太夫(よしのたゆう)。京島原の最も格式のある太夫。高尾同様、その名は襲名された。
本名徳子。代々継がれた名で、作品中の吉野太夫は二代目とある。
『花と火の帝』(講談社文庫下388p)に「全盛を極めた吉野太夫をめぐって、町衆の灰屋紹益と争った」とあるように、『吉野伝』には灰屋紹益の後妻となり、寛永二十(1643)年、三十八歳で没したとある。
また、『色道大鏡』には、藤原姓松田氏の女とある。禿の時の名を林弥といい、元和五(1619)年、十四歳で太夫職となった。
吉野は本名松田徳、肥後浪人松田武右衛門の娘であった。両親に早く死別れたのであろう。七歳の時に三筋町の傾城屋林与次兵衛(扇屋)に養われ、禿名を林弥といい、才媛の名は早くから上り、十四歳で太夫職についた。(略)京の豪商灰屋紹益に落籍され結婚、紹益より三歳年上の姉さん女房であった。結婚後十二年、寛永二十年(1643)八月二十五日、三十八歳でこの世を去ったが、紹益は哀しみのあまり「都をば花なき里になしにけり 吉野を死出の山にうつして」と詠んで、なお愛着の情にたえず、荼毘にふした吉野の亡骸の灰を酒に浸して飲んだとまで伝えられる。(林美一『時代民俗考証事典』)
出雲の阿国に発したかぶき踊りは、阿国の衰退と共に、六条三筋町の遊女たちによって引き継がれたのである。あたかもこの頃の六条三筋町は、高名な吉野太夫以下、七人衆・四天王などと云われる諸芸に秀で、容貌も群を抜いた遊女たちで全盛を極めていた。(『花と火の帝』下81)
文化・文政期の儒者湯浅経邦が著した『吉野伝』には、七人衆として「三筋町に七人衆といひて、わきて名高きあそび七人ありけり、其七人といふは、林家の吉野、同じ家の対馬、同じ家の土佐、柏屋の三笠、宮島家の小藤、若女郎家の葛城、永楽屋の初音」と記し、四天王には「六条の四天王といふあり、万右衛門家の万戸、同じ家の淡路、五郎左衛門家の野風、八左衛門家の長島」と述べられている。
島原の全盛吉野といふ遊女は、初め浮船と名乗ってゐたが、ある年の春、廓内に咲いたさゝやかな櫻の花盛りを眺めて、
ここにさへ さぞや吉野は 花ざかり
と謳ったので、この時から吉野となったといふ。(『江戸時代の猥談』)
『吉野伝』参照。
『色道大鏡』に「吉野伝」(漢文)有り、参照。
大坂新町の遊女
総巻(あげまき)
大坂新町の太夫。佐渡島町上之町の遊廓藤屋勘右衛門抱え。
「藤屋の総巻かたへ、色々の唐絹つくして、天人の羽衣しておくりける」(『諸艶大鑑』七の二)、「跡がさがつても買徳なる物、あげまきが目つき」(『好色盛衰記』三の一)などとある。(『好色一代男全注釈』)
吾妻(あづま) かくれさと苦界行
大坂新町の太夫。富士屋(佐渡屋)与三兵衛抱え。
吾妻は、『器量すぐれ天性位高く、其上糸竹一通はいふに及ばず、萬芸に通じ、諸国の郡客我一とまみゆる事を争ふ』と『澪標』に書かれた女である。(『かくれさと苦界行』261)
(大坂)新町に富士屋与三兵衛(佐渡島氏なり、さとやともいふ)抱遊女に、吾妻といへる太夫あり、夕霧越中にもならぶほどの全盛にて、器量すぐれ天性位高く、其上糸竹一通りはいふにおよばず、万藝に達し、諸国の群集我一とまみゆる事をあらそひ、其中に摂津国河辺郡山本村に、坂上与次右衛門といへる有徳人、此あづまに馴染をかさねて、あげや井筒太郎右衛門が座敷の普請を、結構にしてつかはしける、
世に山崎与次兵衛とぞ云ひかへたり、其比にも珍敷事にてありしにや、歌に作りて「あづま請だせ山崎与次兵衛、請出せ/\山崎与次兵衛、そこつて請出せ三百両」と諷ひしなり、此ころ女郎の身代三百両といへるは珍敷事にて、今の千両今の幅(ママ)よりもすさまじかりし、此吾妻馴染後に我姿を画て、賛をこのまれければ、
身はなには心は都名はあづま とのぶりのぼる恋の山本
と書て送し、今に摂津国山本の村坂上氏に、くだんの一軸伝来すとなり(『久夢日記』)
新町佐渡島町上之町の遊郭「富士屋(藤屋とも)」佐渡島勘右衛門家抱えの太夫。『みをづくし』に、「あづまの事 佐渡島与三兵衛家代々暖簾に、かくの如く画ありしゆへに、誰が言ひそめしや、終に富士屋と家号に呼びし也。しかれども町にては、佐渡島勘右衛門と申したるなり。寛文年中此家の抱へに吾妻といへる太夫ありて、越中・夕霧にも並ぶほどの全盛にてありし。器量すぐれ、天性位高く、その上糸竹一通りは云ふに及ばず、万芸に通じ、諸国の群客我一とまみゆる事を争ふ。その中に摂州山本村に坂上与次右衛門といへる有徳人ありける。或る時この津に来り、吾妻の名高きにひかれ、九軒町井筒屋太郎右衛門が方にて、この吾妻にふと折よく逢初しより、昼夜足をここに留め、それより馴染を重ね、揚詰めの遊び、井筒屋の座敷を建直しやりけり。この大臣与次右衛門定紋三つ柏にて有りけるより、太郎右衛門が座敷の釘隠し残らず柏の金物を打たしたり。結構の家造り、筆にも及び難し」とあり、その後に続けて前掲『久夢日記』に記されたエピソードを上げている。
作品では、幻斎の敵娼となり、後に幻斎の妻となって江戸へ下るが、このエピソードは隆氏の創作。
越中(えっちゅう)
大坂新町の太夫。木村屋又四郎抱え。
越中褌の産みの親という。
▲延宝丁巳年、大坂新町木村屋又四郎かゝゑ、遊女越中といへる太夫あり、容色いふばかりなし、この太夫道中の時刻は、廓中見物おしもわけられず、往来急にしがたし、これによつて又四郎裏より、九軒町の水道へ橋をかけ、裏道より揚屋へ入しゆへ、この橋を世人越中橋と号しける、またある時あげ屋にて、わがあいかたの客人風呂に入らんとせし時、下帯まではづして入らんとせし時、姿見ぐるしとて俄におもひつき、湯具のひぢりめんの二布をときはなし、それにひも付けあたへしより、越中褌といふ事はじまりし(『久夢日記』)
荻野(おぎの)
大坂新町の太夫。新町扇屋抱え。
花扇(かせん) 張りの吉原
大坂新町の太夫。
小太夫(こだゆう)
大坂新町の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「小太夫伝」の記述有り参照。
唐土(もろこし)
大坂新町の太夫。新町筋扇屋牛之助抱え。
大和(やまと)
大坂新町の太夫。
『色道大鏡』に、漢文の「大和伝」有り。
夕霧(ゆうぎり)
大坂新町の太夫。元島原太夫町宮島甚三郎家抱えの太夫で、諱駿子。
島原の扇屋四郎兵衛家が寛文十二年新町移転の際、同家抱えとなり大坂新町に下り、全盛を極めた。道中の時引舟を連れて歩く姿は、この夕霧から始まったといわれる。
○二十四夕霧 都柳町桔梗屋意徳といへるもの、廓内にいみやいありて、あふぎや四郎兵衛とは、意徳こゝろ安きゆへ、思ひ立、一所に大坂へ引越ける、扇やが抱女郎を連れしは夕霧より始る、阿波大臣といふは義太夫にあり、大坂阿波屋何某といへる大分限者、夕霧になじみ、病中殊の外世話せしなり、九軒町揚屋吉田屋喜左衛門が客なり、ふじや伊左衛門は跡方もなし(後略)(『三升屋二三治戯場書留』)
夕霧の事に触れた記述が『近世江都著聞集』巻九にあり参照。
江戸吉原の遊女
揚巻(あげまき) かくれさと苦界行
歌舞伎十八番『助六』に登場する花魁の名。新吉原三浦屋抱えの太夫の名。
総角(あげまき) 張りの吉原
新吉原西田屋抱えの太夫の名。
あや衣(あやごろも)
江戸新吉原の遊女。大菱屋抱え。
○天明五のとし七月十四日頃、御旗本藤枝外記といへる人、新吉原大びしやあや衣といへる遊女と、田圃にすめる餌まきの家にて心中せしに、藤枝氏五千石を領する家なれば、その頃、吉原にての歌に、
君とぬやるか五千石とるかなんの五千石君とねよう
といへるを、三味線にあはせてうたひ興じけり、(『俗耳鼓吹』)
薄雲(うすぐも)
江戸吉原の太夫。京町三浦屋抱え。
高尾と双ぶ三浦屋の太夫。『近世江都著聞集』巻五にこの薄雲の記述が有る。
采女(うねめ)
江戸新吉原の太夫。堺町雁金屋抱え。
寛文の頃、雁金屋の遊女采女が、橋場あたりの鏡が池へ身を投げて死んだ。采女は美貌の上に心やさしい女、ひとりの若い僧が彼女を慕い、戒律を破って通いつめた。雁金では、好ましくない客と見て登楼を断った。すると僧は悲恋の情に耐えず、ある夜雁金屋の見世先で喉を突いて死んだ。どこの僧ともわからぬので、死体は日本堤へ捨てられたが、格子の内から采女は始終を見、深く僧の真情に打たれた。そのような僧を、自分もいつしかいとしいと思っていたことに気づいた。采女は思慕と悲しみのあまり、廓を忍び出て鏡が池へ投身した。そのとき松の枝にかけた小袖には、「名をそれと知らずとも知れ猿沢の あとを鏡が池にしずめて」の一首が書かれていた。かつて奈良の帝に奉仕した采女(女官の職名)が、世をはかなんで猿沢池に投身した故事になぞらえた歌である。采女は時に十七歳、土地の人はこれを憐れんで、塚を築いて供養した。明治の末年まで、采女塚はその池畔に残っていた。(『歴史読本』昭和44年11月号稲垣史生「ありんす国深秘考」)
○采女塚 此辺り(鏡ケ池)といふ、寛文の比新吉原堺町雁金や采女といへる遊女、短冊に一首の歌をしるし、こゝに身を投死するよし、
名をそれとしらずとも知れ猿沢の 跡を鏡の池にしづめば
此趣をくわしくしるして此池辺に松を立たり、(『浅草志』)
しかし、下に紹介する『望海毎談』(「燕石十種」所収)では、新吉原大菱屋の遊女「采女」となっている。
浅茅が原 一、橋場村の浅茅が原に、鏡が池と云あり、其近辺に采女塚といふ有、是は、新吉原大菱屋といふ家に、采女といへる遊女あり、いづくよりか出家来りて相馴み、多く金銀を失ふを以て、其僧甚貧しくなりしかば、其宿屋よりして、是をせきて、堅く逢せざりければ、其僧も夫より行衛しれずなりたり、采女は、我より斯成乱れしと思ひ悲しみ、吉原を隠れ出て、此浅茅が原に来り、鏡が池に身をなげて死たりしを、此塚に築こめたりと云、此女、上着を脱て池の辺に捨置たるをみれば、その小袖のうちに一首を書残したり、
いはず共それぞとはしれ猿沢の 跡を鏡の池にのこして
夫より後は、此塚も退転したり、(頭書 或書に、名をそれといはずともしれ猿沢のあとを鏡が池にしづめば、とあり)世人、此采女が身を投し事を、梅若の母、はる/\〃京より尋下りしに、むなしくなりたる其別のかなしさに、此池に身を投て死たり、其骸を引あげ、土中に埋みし時、死骸の懐より鏡出たるを以て、此池を鏡の池と名付く、供養付て妙喜尼と戒名し、其後、其菩提の為に一宇を結び、妙喜堂と言となり、思ふに、梅若には、宝永七年寅の三月、七百年忌の供養念仏したり、然るに、梅若の母の事にしたる遊女采女が事は、明暦三年酉の春、江戸大火の後、新吉原へ引移ての以後の事なれば、漸く八十年に及ぶ、大なる時代相違を取合せたる物なれば、何事も梅若と云ること可レ笑、延宝の初年、平河山報恩寺の住侶日覚上人肉兄たる浄土道心者、此妙喜庵の堂を守り居しが、古き櫛笄を取揃へて、梅若の母儀の此所へ是を残し置、入水せられし物、と縁起に書載て、宝物と披露す、此事、上人のまのあたり見たることゝ、物語りし侍りぬ、(『望海毎談』)
采女塚の事
橋場総泉寺の辺に采女塚といへる有りと伝へぬれど、今はおぼろに誰しる人もなし。或る老人の語りけるは、いにしへ吉原丁の遊女に采女となんいへる有しが、あたり近き侍の所化、右の采女を与風見初てせつに思ひ慕ひしが、元より貧しき僧なれば、かゝる全盛の遊女に馴染逢ん事もかたかりけるを、愁ひ忍び兼てや、彼くつわやの格子に来りて采女をしたひ自殺して失ぬるを、「如何なるものにや」と懐中など見しに、采女を恋ふるわけなど書置けるよし。采女聞て、「かく命を捨て恋るとなん、いかに詮方もあるべき」と、深く歎きて伏沈みしが、或夜うかれ出て、彼僧は橋場あたりに葬りしと聞て、其頃迄は鏡が池なども広く深くもありしや、一首の歌をかたへなる松に残して入水して終りぬと、人のかたりしが、其歌は、
なをそれと問はずともしれさる沢の 影をかゞみが池にしづめば
(『耳袋』巻之六)
奥州(おうしゅう)
江戸新吉原の太夫。江戸町茗荷屋抱え。
『近世江都著聞集』巻五にこの奥州の記述が有る。
大蔵(おおくら)
江戸新吉原の太夫。江戸町茗荷屋抱え。
▲貞享三丙寅年、本庄安藝守殿、ふと新吉原へかよはれける、(略)、安藝守殿はめうがや(茗荷屋)かゝゑの、大蔵といふ遊女にふかくなじまれける、
このめうがやの大蔵がうき名をたてしことは、石町紙問屋に江戸津与三兵衛といふもの、江戸町まんじや(万字屋)かゝゑの、三笠といへる遊女にふかくなじみて、しんしやう(身上)みなにしてのちは、吉原のたいこもち(太鼓持ち)となり居たり、男つきはなはだきれいにて、よきいろ男なり、あるときあげや(揚屋)にて、めうがやの大蔵に、客の目をしのびてくぜつ(口説)しけるに、大蔵もいなにもあらでもふしけるは、我をひとすじにおもひ給はゞあふべしとて、客の目をしのびてあいける、大くらもうすやうは、しんじつこゝろあらば、我もこゝろ一つにしてあふべしとて、大蔵ゆびをきりて与(三)兵衛にやる、与兵衛うれしくおもへども、つかひはたしなすべきよふなし、めうがや亭主大くらがゆびなきを見て、おふきにはらたちてせつかん(折檻)し、たれがためにゆびきりしぞと、いへどもこたへず、あまりにいたくせめて土蔵へいれ、しよくじ(食事)をほしたりける、かたはらのもの亭主をいさめもふしけるは、あのごとく疵あるものをせつかん、食ほしになされては、もし死候はゞなにのとくかあらん、たゞつとめにいだしなされ候はゞ、またもやあい手もしのぶらん、そのときは間夫もしれもうさん、御しおきもこれまでになされ、しかるべくともふしける、亭主もつともなりとて、三日めにつとめにいだしける、そのばんに与兵衛は、こゝろもとなくおもひ、まがき(間垣)にたちてねずみなき注していたりしに、大くらかうし(格子)よりかほさしいだし、いまはつゝみてもせんなし、いつそ世けんはれてあいぬべし、たいこもちの御身こそうたでけれ、これを代替(しろかへ)て客となりてきたり給へとて、こしおびになにやらつゝみしものをなげいだす、とりあげて見れば銀のはちなり、うれしくもちかゑり、代(しろ)なして金にして、七十五両にぞなりける、さてよく日よりはなをふらして大蔵をよびよせて、大じんとなりてあそびける、あげやはもとの紙屋にして、いぜんにかゑりしとほんそうす、なじみのみかさ(三笠)これをきゝつけてはらたち、まことにともかくもすべきありさまにて、大もん(大門)にまちいしに、与兵衛がかゑるところを、三笠たちいでひきとらへ、これあくしようもの、こちへとひきずるに、大蔵はならぬとせりあい、のちは女郎どうしむしりあひ、与兵衛はきもの髪もひきさばき、三人くみあいうちあいするほどに、よふ/\さうほうへおしわけて、とう/\三笠かたへ与兵衛をとられて、万字屋へつれゆく、さて与兵衛は三笠にうらみかこたれ、このうへはおゝくらにあい給はゞ、じがいして死すべしといふゆへ、さま/〃\わびごとしてもすまず、かさねておもひきるべしと、大くらかたへふみやるべしと、ふみかゝせつかわしぬ、そのいご与兵衛はつかひのこりの金三十両ばかりありけるをば、大くらにかゑしたくおもひ、まがきにたちて金子さしいだしければ、ちくしようになにもよふはなしといふ、与兵衛三笠とのわけいろ/\もふしわけすれども、大蔵しらぬふりなり、この金はつかひのこりのかね、三十両かゑすとて、かうしのうちへおしいる、大くらとつておもてへなげいだし、いつたんちくしようの手にふれしもの、我はいらぬとそれよりのちはむごんにて、さらにさたもなし、与兵衛もせんかたなく、みぎのかねをもちかゑりぬ、これめうがやの大くらが、うき名たちしわけ(『久夢日記』)
注ねずみなき(鼠啼)(二)口をすぼめて鼠の啼聲に類する音を出すこと、多くは花柳社會などにて、相思の男女の逢瀬をよろこびなどするときになすもの。(『廣辭林 新訂版』)
かほる(かおる)
江戸吉原の太夫。高島屋抱え。
勝山と同じ頃(元吉原から新吉原へちょうど替る頃)の吉原で人気の太夫。
同じ頃高島やが家のかほるまた全盛也(『青楼年略考』)
黛(かおる)
江戸吉原の太夫。江戸町佐野屋抱え。
「遊女黛 吉原江戸町二丁目、佐野屋の抱へ、容顔美麗、廓中にならぶ君なし、元より孝心深く、父母の年忌にあたりし時、廓中其外出入の者まで、行平鍋を一づゝ施したり、
わがかづく多くのなべをほどこして 万治このかたにるものぞなき
(『わすれのこり」)
香久山(かぐやま)
江戸吉原の太夫。江戸町西村庄助抱え。
『洞房語園抄書』に太夫「香久山」の記述有り。
勝山(かつやま) 吉原御免状、かくれさと苦界行、死ぬことと見つけたり
詳しくはこちら
几帳(きちょう)
江戸吉原の遊女。三浦屋抱え。
高尾太夫で名高い三浦屋の抱えの遊女として「几帳」という名が現れる。「几帳」は紀ノ国屋文左衛門に身請されたと『大尽舞考証』にあるが、谿舎龠山人の「大尽舞考余」には、「山東庵の説の如く、紀文が根引せしにはあらず」ともある。
[三浦の几帳]三浦屋四郎左衛門が家の名妓なり、甚侠気ある者にて、よのつねの客には逢はざりし由、吉原徒然草(正徳の頃写本)に、京町の几帳とて、やんごとなき全盛の女郎有けり、蕎麦切を好て多く喰けり、中略、甘汁は愚痴なりとて、江戸汁を好み、人あつめして喰はせける程に、出る時、半分はすみのつるがやの払と成けり、中略、はりの強き女郎にて、我儘気隋をせしか共、又うまき事ある故に、客もよろづをゆるして馴染けると有、紀文が身請せし几帳、これなるべし、(『大尽舞考証』)
雲井(くもい) 吉原御免状
江戸吉原の遊女。元吉原新町河合権左衛門抱え。
宮本武蔵の馴染みの遊女だったといわれる。
『一、新町河合権左衛門内雲井という女郎は、宮本武蔵があいかたなり。島原陣のとき、この家より出立ちして、黒田さま内陣へ、宮本武蔵ご見参にまいりけるよし。』『一、宮本武蔵は 新町河合権左衛門内雲井という女郎の相方にて遊ばれけるが、寛永十五(1638)年、島原のキリシタン一揆のとき、「黒田さまのご陣にお見舞いにまいる」というて、いとま乞いながら、かの雲井がもとに来られて、彼女に差し物を縫わせて、勇々しく出立つ。直に騎馬にて、肥前(島原キリシタン一揆弾圧)に参られけるよし。』と庄司家譜『青楼年暦考』にある。
宮本武蔵ハ新町河合権左衛門内雲井といふ女郎の相方にして遊はれけるが、寛永十五年島原一揆の時、黒田様の御陣へ御見舞に参るとて、いとま乞ながら、かの雲井が許に来られ、かの女にさし物を縫はせ、勇々敷出立、直に騎馬にて肥前へ参られけるよし(『青楼年略考』)
『洞房語園抄書』に雲井の記述有り参照。
小紫(こむらさき)
江戸新吉原の太夫。三浦屋抱え。
濃紫とも書き、『久夢日記』によれば「こむらさき」という太夫の名乗りは三代あったという。
この花街(吉原)にも昔は随分すぐれた女がいた。例へて見れば、寛文頃の遊女小紫である。彼女は和歌の道に達し、よくその道に精進して、心ばへも優しく風雅であったため、世上では、石山寺の観世音で源氏六十帖を編集した才女紫式部にも似たといふ評判で、小紫といふ名はそれから出たといふ。江戸の小紫の花起請文、葉守の神かけてなどいふ文章は有名である。(『江戸時代の猥談』)
▲延宝五丁巳年、遊女とて操の正しき誣べからず、爰に新吉原三浦屋四郎左衛門がかゝゑに、濃紫といへる三代あり、二代目のこむらさき、賊平井権八にあいなれしが、権八悪事露顕ありてめしとられ、品川におゐて御仕置に仰付られしが、由緒のものその遺骸を、目黒の里こもそう寺昌東寺にほうむりて、一堆の主となしぬ、しかせし後こむらさきは、何気なき風情に苦界して、ある豪夫に親しみ、ついに請出されぬ、濃紫はその請出されし夜に、そこなる宿をぬけ出目黒へ行、権八が墓前にて自殺したり、自殺の後ところにて、その意趣をしれるものふびんがりて、権八が墳に双てほうむりたり、これを目黒の比翼塚とて、世によくしるところなり、賊とはしれど連理の誓ひをうしなわず、死をもって報ず、遊女の貞操、このかぎりにはあらねども因に爰に記す(『久夢日記』)
濃紫(こむらさき) 吉原御免状
吉原の花魁の名。小紫とも書く。
少将(しょうしょう)
江戸新吉原の遊女。ゑびや抱え。
○二十二 虎少将
明和の頃、江戸よし原に、遊女虎少将と云あり、同五年子四月六日、江戸町二丁目四ツ目屋より出火して、廓中焼る、其頃、巴屋にとらといふ遊女あり、ゑびや庄助二軒有、爰に少将といふ女郎ありて、殊の外はやるゆへ、前のゑびやを庄助といひ、跡のゑびやを少将ゑびやといふ、町名はいづれか京町ともいへり、虎少将の名一代にてはなし、(『三升屋二三治戯場書留』)
瀬川(せがわ)
松葉屋の瀬川といえば、吉原名題の花魁として『卯花園漫録』などにもその逸話を誌されている遊女だが、勿論これは一人の人物ではなく、松葉屋の名跡として数代続いた妓名である。(中略)
瀬川の名を細見で確認できるのは雀庵の記した享保十三(1728)年秋のそれからである。家蔵の翌十四年相模屋板細見では三枚目にあり一人禿揚代二分の座敷持である。この瀬川は可成名が高かったらしく、『洞房語園集』に「夕立やうそのやうなる日の光」「名月 入相の人のいさみや今日の月」の二句を採られている。又、在廓も永く元文初年に到ったようで、『評判開産記』には、上上吉せ川として「御全盛と申すもおろか、御面体よし、少し派手成、尤女郎は派手で持つとはいへどお年相応致しませ□たた何事も御ひかへ」とあり、年明き間近な姥桜だったようである。『元文世説雑録』にも、似たもの揃として、「器量の悪いもの、酒井日向と松葉屋瀬川」北京二幅対として、「ふら/\とするもの、風鈴と松葉屋瀬川」とあり、世上兎角の話題を供したらしい。これが二代瀬川である。
次の三代瀬川は寛延二(1749)年春の細見『かぶろ松』に二人禿付三分の散茶として七枚目に出ている。二人禿付は松葉屋には四名しかいないので瀬川はこの一人として突出しとなったが、これが宝暦五(1755)年の末、江市屋宗介に請出された有名な瀬川である。宝暦二年春の『太夫地森』では見世の筆頭、同四年の評判記『吉原出世鑑』では「ちやのゆ歌学よし、中にも平沢流の占卜筮よし」とあり、総評の内では「(下町組)いや器量で申さふなら松葉屋の瀬川殿こそあつぱれ上々吉、くるわの内はさておき、もの参りなどに出られた所は、奥さまと申してもくるしふない押立て云々」と賞め上げている。皮肉屋の馬場文耕が『武野俗談』の内でこの瀬川は讃仰に近い書きぶりをしているのを見ても瀬川の人気は推察される。この文耕の記事で出生が下総小見川だったことが知れるし、瀬川の性格もよく窺うことが出来る。
宝暦五年春の評判記『交代盤栄記』には「此おかた器量美しき事、白芙蓉のごとし、一体器用成生れにして、倹約を本とし、万事小態なる事を好み給ふやうなれども、またさにもあらず、九献は好き給はねども盃事の面白さ諸事好味有。はりもありてどふも云へぬ所あり。手跡もなさるれども、吾等如きの初心には読みかね候へとも、第一客衆の取廻し御上手故、日にまして御さかんの御事 珍重/\」とあり、是又、文耕の洩らした一面を補い得る。瀬川の紋の三つ柏はこの瀬川の時からであり、瀬川の名が松葉屋第一の名跡となったのも此の時からである。又、松葉屋の主の名が半左衛門となったのも宝暦中期からで、以後代々当主は半左衛門を襲名した。
四代目の瀬川は宝暦六年に出た。八年の細見では筆頭となっているが、この年三月二十五日自害したと云う。行年十九歳。この自害の真相については後年『霧籬物語』に夕霧に仮託されて述べられたようなことがあったらしいが分明でない。鳶魚説も些か焦点ぼけの観がある。
自害の不祥があった為か以後瀬川の名は暫く途絶えていたが、十七年を経て安永四年秋の細見『籬の花』に五代目の瀬川が現れた。これがこの暮に鳥山検校に請出された瀬川であるが、まだ出たばかりで名妓でも何でもない。鳥山との関係で有名になっただけのことである。三年後、鳥山一味の高利貸が処刑され、瀬川は勤めの頃の馴染客飯沼某の妻となったと云うが、この落付きについては外骨の雑誌『有名無名』第二号に「只誠埃録」の記事を登載している。ただし、その内に瀬川の末路を『均庭雑考』を引用して記したとあるが、現行の『均庭雑考』にはこの記事はない。或は『過眼録』類似の別本があったのであろうか。鳶魚『芝居ばなし』の瀬川五郷も拠る所は、「只誠埃録」であろう。この身請けは田螺金魚の洒落本『契情買虎之巻』を初め、黄表紙や狂言などにも取上げられているが、孰れにしても松葉屋にとって芳しいからぬ評判であり、鳥山処刑後は殊更であったのであろう、瀬川の名跡は又ここで中絶することとなった。
六代目の瀬川が取立てられたのは七年後の天明二(1782)年四月のことである。恰も田沼の全盛期で吉原の景気も好く、久し振りに立った瀬川の名跡は好感をもって迎えられたようだ。洒落本『許都酒美選』や黄表紙『誤歟大和功』『客人女郎』などに登場するのはこの瀬川であり、三年秋弓弦御用達岸本大隈こと浅田栄次郎に落籍された(身価千両とも云う)。この栄次郎を戯画化した黄表紙『江戸生艶気樺焼』は京伝画作で天明五年に出たが、この中で栄次郎は艶二郎、瀬川は浮名屋浮名となっている。瀬川の落着きについては、天明七年の『通言総籬』の内で、「観音の地内に居やしたが、かこわれたそうでござりやす」と云わせているが『有名無名』の「瀬川考」では、一旦妾として入れたものの、老母はじめ案内の者の異見で暇を出したと書かれている。瀬川ことおかねは其後元馴染のばかうと云う者の妻となったが離別後転々して最後は堀江町辺りの町代など勤める者の妻になったと、これも「只誠埃録」を引いて記している。
七代目は同家の中三女郎歌姫の禿このも、引込新造となり松野と呼ばれていたが、天明四年四月に取立てられて襲名した。京伝の『通言総籬』や『傾城籬』に記されている瀬川(『総籬』ではおす川)で『亀山人家妖』によれば小柄だったらしい。この二代の瀬川は松葉屋でも別格として取扱われていた様で、南畝がその妾賎(松葉屋の新造三穂崎、天明六年七月退廓)から聞書した『松楼私語』によれば、瀬川の座敷は四間続きで座敷代月壱両、他の呼出し・中三はその半分にも足りない壱分弐朱だったという。その結構は天明七年十一月全焼(中略)
七代目瀬川は新築成る前の仮宅中、天明八年三月に松前公子文喬に請出され(『俗耳鼓吹』)この座敷は使っていない。『俗耳鼓吹』には八代目瀬川は同年四月に突出した由なので、仮宅から帰ってこの主になったのはこの瀬川である。ただ寛政二(1790)年秋の細見には既にその名が見えない。或は夭折したものででもあろうか。
寛政期は改革の余波を受けて吉原も不況に沈潜した。加えて六年四月、十二年二月と再度廓は全焼した。松葉屋としても大きな瀬川の名跡を立てる余裕はなかったのであろう。次の九代目瀬川の名は寛政十二年の『仮宅細見』に漸く見ることができる。寛政九年の揚代改訂により、この瀬川は入山形に二ツ星の呼出し、揚代壱両壱分の最高妓である。歌麿の錦絵にも描かれ、『青楼年中行事』の中に「たかどのの爪音もれつ後夜の花」の句を留めている妓だが、在廓は享和二(1802)年迄の僅か三年に過ぎなかった。然して「松葉屋瀬川」の名跡はこの九代目を以て終焉となった。なお、瀬川付の禿の名は、五代目以後は等しく竹野・松野とつけられていた。(後略)(向井信夫「松葉屋瀬川の歴代」)
『当世武野俗談』に有る「瀬川」の記述参照。
瀬川(三代)(せがわ)
江戸新吉原の太夫。江戸町松葉屋半左衛門方抱え。
この松葉屋の瀬川といふのも亦、この花街随一の美妓で、王昭君西施と雖も面を伏せ、小町といへど顔を蔽ふといふ程の素晴らしい美人であった。生まれは、下総の國小見川の在の水飲百姓の娘であった。
幼少の頃から、松葉屋にやしなわれて居た関係上、女の道も學ばずして一通りは心得、妓女の藝も一と通り、三絃、浄瑠璃は勿論のこと、茶の湯、俳諧、碁、雙六、鞠、皷笛諷舞、ありと凡ゆる藝に熟達し、その上能書は俗気を離れ廣澤為石の流儀で、文徴明の墨跡を好み、唐詩選を取廻はしては、歴々の儒者の門人にも爪を咥へさせ、又繪も上手で彼の文雅堂の弟子となり、俳諧は當時の乾什米仲の門人平澤左内の弟子となっては、卜筮を學び、平常自分の部屋には、箸を紫の服紗に包み、算木を蒔絵の小箱に入れ置き、傍輩女郎衆の願ひごと、或は待人客の往来首尾の善悪毎日々々是を占て樂をしたといふ、實に多藝多才の不思議な遊女であった。(『江戸時代の猥談』)
瀬川(五代)(せがわ)
江戸新吉原の太夫。江戸町松葉屋半左衛門方抱え。
安永中(均云ふ、安永四年)鳥山検校遊里に赴き、遊女瀬川を見受けし、巨万の金銀を費やせり(此の検校、諸人に金銀を貸して高利を貪りけるゆゑ、つひに罪科に処せられしと聞けり)。(『武江年表』1)
瀬川(せがわ) 張りの吉原
宝暦期の新吉原松葉屋抱えの太夫。
染衣(そめごろも)
江戸吉原の遊女。森川槌屋抱え。
遊女染衣 吉原京町二町目、森川槌屋の抱へにて、さして美といふほどにもあらざれど、其全盛、歴々の名妓も及ばず、これを揚げて遊ばんには、その前に茶屋へ云込ねば不レ能と、人に聞けば、性来淫婦にて、殊の外安売なりとぞ、(『わすれのこり』)
高尾(たかお)
玉菊(たまぎく)
江戸新吉原の太夫。角町中万字屋抱え。
享保十三年(1728)戊申
○七月、吉原仲の町に燈籠を出す(角町中万字屋の名妓玉菊といへるもの、享保十一年午三月二十九日死せり。今年三回忌にいたり、盆中霊をまつるとて、仲の町俵や虎文、揚屋町松屋八兵衛などいへる者此の事をはじむ。始めは切子どうろうにてありしが、小川破笠が奇巧より次第にたくみになりしといへり。ことし「玉菊追善袖さらし」といへる河東節の上るり、竹婦人作にて行はれたり。
均庭云ふ、此の燈籠玉菊が追善に始まれりとは、普くいへることながら非なるべし。其の考「嬉遊笑覧」にあり。開き見るべし。(『武江年表』1)
文政九年(1826)丙戌
○今年遊女玉菊が百年の忌に当れりとて、浅草新堀永見寺に墳墓を営む(石碑に菊顔玉露享保十二年六月二十五日と鐫せり。玉菊が事は前にもいふ如く、角町中万字屋勘兵衛が抱の遊女にして、享保十一年三月二十九日二十五歳にしてみまかれり。浅草新寺町光感寺へ葬りける事は、「袖さうし」其の余の冊子どもに明らかに見えたり。永見寺は万字屋が菩提所なれば、墳墓を営みしよしなれど相違の年月を記し、戒名も跡にてまうけたる物と見ゆ)。
均庭云ふ、百年忌といふは誤りなり。荻野梅塢といへる者、玉菊が墓所を或るものをそゝのかして繕ひ、碑を立てけるはこの前年なり。其の文に今文政八年乙酉五月十九日は、玉菊がうせし日より百歳に余り二十とせの年過ぎてこゝに建つるなり。山崎久作といふもの、この「玉菊考」あり。さて今世に吉原燈籠といふ事は、玉菊より起れりといふが、普通の説なれど誤りなるべし。また玉菊拳相撲の手覆といふもの、京伝が「奇跡考」に出したるを、「玉菊考」にも真と心得たり。これ又大なる誤りなり。それらの事繁ければこゝに記しがたし。「嬉遊笑覧」を見て知るべし。(『武江年表』2)
△同秋燈籠は正徳中角町中万文字やの抱玉菊と云遊女、追善の為、茶屋/\に燈籠を燈し初む、夫より享保元七月より専ら盛んになり、今に例とす。(『浅草志』)
一、水調子の浄瑠理は、新吉原角万字屋に玉菊といへる女郎あり、禿しげみ、しのぶといふ、此玉菊事、きりやう十人に勝れ、情深く、高き卑きの高下もなく、諸事行届き、よき心底に生れ付なり、誰あしくいふものなく、茶屋裏の文使のよふなるものまでも、情をかけし也、客は勿論心実深く、振といふ事もなく、慾がましき心も無く勤し也、此玉菊事、二十歳の時病気付けるが、神社仏閣へ千度百度祈祷祈念、所々への代参、上を下へとかへし、名ある医師どもをかけ、少しも手透もなく療治を尽しければ、漸く病気平癒ありける、夫より四花くわんもんの灸治致すべし、と医師申けるに、玉菊申には、灸事のうち、半太夫、河東両人の浄瑠璃を隔段に聞ながらすへ度よし、此由を内証へも咄候へば、承知の旨にて、日限を極め、摺物等出せしなり、此時、家内の女郎惣仕舞、仕切/\も不レ残うちぬきける、浄瑠璃聞に来る人々へは、吸物、酒肴、本膳等までも出し、馳走有しなり、誠に貴賤群集して、賑々敷事言語にも尽しがたく、夫より後二十五歳の時、また病気にて、終には草葉の露と消うせけり、此時こそ歎かざりし者はなく、皆々袖をしぼりける、扨、其年七月も近く、玉菊の新盆になり、恩を受しものみな、恩送りに、提灯または切子灯籠を出し、玉菊追善の賑々敷事、貴賤群集せし、頃は享保年中也、是より吉原燈籠初りしなり、(『江戸節根元由来記』)
『玉菊考』参照。
『近世江都著聞集』巻五に玉菊の記述が有り参照。
千と勢(ちとせ)
江戸吉原の格子女郎。京町新屋三郎右衛門抱え。
『異本洞房語園』に格子「千と勢」の記述有り。
虎(とら)
江戸新吉原の遊女。巴屋抱え。
○二十二 虎少将
明和の頃、江戸よし原に、遊女虎少将と云あり、同五年子四月六日、江戸町二丁目四ツ目屋より出火して、廓中焼る、其頃、巴屋にとらといふ遊女あり、ゑびや庄助二軒有、爰に少将といふ女郎ありて、殊の外はやるゆへ、前のゑびやを庄助といひ、跡のゑびやを少将ゑびやといふ、町名はいづれか京町ともいへり、虎少将の名一代にてはなし、(『三升屋二三治戯場書留』)
花扇(はなおおぎ)
江戸新吉原の太夫。江戸町扇屋抱え。
寛政年間記事
○吉原扇屋の名妓花扇、老母に孝心の聞えあり来舶の清人費晴湖、崎陽(ながさき)にありて此の孝娼妓が事を聞き、これを賛したる詩あり、曲亭の「烹雑(にまぜ)の記」に載りたり。(『武江年表』2)
天明五巳 八月江戸町扇屋花扇、客に殺されんとす、(咽をよけて今無レ恙、客は即死也)(『青楼年暦考』)
芙蓉(ふよう) 吉原御免状
新吉原角町菱屋抱えの太夫。
新吉原角町菱屋抱えの太夫。享保年間に花魁道中で最初に下駄を用いたとされる。(『吉原御免状』102)
万寿(まんじゅ)
江戸吉原の格子女郎。江戸町西村庄助抱え。
『洞房語園抄書』に格子「万寿」の記述有り。
三穂崎(みほざき) 吉原御免状
新吉原松葉屋抱えの花魁の名。大田南畝に請出された。
→ おしず
八橋(やつはし)
江戸吉原の遊女。角町中万字屋抱え。
「八橋」という遊女は、落ちぶれた馴染み客につれなくして斬り殺されたと『近世江都著聞集』巻九にある。
吉田(よしだ)
江戸吉原の太夫。京町新屋三郎右衛門抱え。
『異本洞房語園』に太夫「吉田」の記述有り。
芳野(よしの)
江戸新吉原の太夫。寛文の頃、新町彦左衛門抱え。
『吉原袖鑑』等に現われる。吉原四天王第二の太夫と云われた。(『近世色道論』解説)
その他の遊女
浮橋(うきはし)
伏見橦木町の遊女。元禄期、笹屋清左衛門抱えの太夫。
大石内蔵助の相方として知られる。
幾佐(きさ)
南都木辻町の遊女。
「きさ」が春日野で茶の湯をした風流が、「世に聞ふれて、大和屋(甚兵衛)が狂言の種ともなりぬ。かゝる所に惜き女にてありつる。其あけの年の二月に」大坂の大尽森五が、奈良の薪能を見物に来て、この幾佐のことを思いつき、両者互いに見事な立引きをしたと『諸艶大鑑』四の五に記されている。また、ここの遊女として「志賀」「ちとせ」の名が「きさ」とともに『好色一代男』に表れる。
高尾(たかお) 死ぬことと見つけたり
長崎丸山のあんにょう(女郎)の名。
迫瀬川(はせがわ) 鬼麿斬人剣
初代迫瀬川。越前三国湊の女郎。哥川と名乗り加賀の千代女と並び称される俳人。
『続近世畸人伝』参照。
華扇(はなおうぎ) 死ぬことと見つけたり
長崎丸山の遊女の名。お梶。長崎随一の富豪高木彦右衛門に身請けされる事になるが、その彦右衛門はお梶の父であることから、身請話を知った斎藤杢之助によって彦右衛門は成敗された。
宮木野(みやぎの)
宿場女郎。
宮木野は、駿河の国府中の旅屋にかくれなき遊女なり。眉目かたちうつくしく、手よくかきて、哥の道に心をかけ、情の色ふかゞりければ、近きあたりの人これをしたひ、風流のともがらこと/\〃くこれになれざるをうらみとし、好事のものみなこれにちぎらざるを恥とす。此故に中古このかたにはたぐひなき遊女なりとて、いにしへの虎御前になぞらへ力寿にくらべて、たかきいやしきおなじ心にもてはやしけり。(浅井了意『伽婢子』巻之六 藤井清六遊女宮木野を娶事)

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