![]()
隆慶わーるど・歴史のこぼれ話(一)
(参考文献余滴)
隆慶作品関連の史資料を渉猟するなかから、直接作品に関係ないが、疑問に感じたり、あるいはなるほどと思った事柄などを紹介しております。浅学ゆへの素朴に感じた事柄ですので、間違った解釈や見解であることが多いと思われます。それらについて、先輩諸氏の方々からのご教示を賜れば幸いです。
死者にちなむ地名
谷川健一氏の『列島縦断 地名逍遥』(富山房刊)を読んで、我国の地名の由来には、埋葬や死に関連する場所を表す語から発生している地名が多い事を知った。
その一つが「青」で、沖縄の「青の島」が埋葬の島である事から調べ、全国に有る「青」の付く地名の多くが、死者を葬る地に関連していると書いている。青島しかり、青海しかり、その殆どが古代には埋葬の地を言ったらしい。美濃の青墓という地名も、付近に前方後円墳が集中した地で、その名の通り埋葬地と縁が深い地名なのだ。
谷川氏はその著書の中で、対馬の青海という地名について述べている。そこに、「青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。詣り墓は寺の裏山にあり、埋め墓に参るのは七七日の忌までであった」とあり、非日常の死者の世界(埋葬地)と日常に繋がる供養墓が別れている。そこの住民は「他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へいく」とか「旅にいく」という言い方をする。部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった」と書いている。これは、青から外れるが隣りの木坂でも同じで、木坂は人が生まれる産小屋が人家から離れた川の向うにあり、死者は集落の外れの山に葬る。山の名は保利山といい、「葬(ほふ)り」の「ほり」から来ているという。どちらも、部落が一つの世界で、死者の埋葬で完結する宇宙なのだろう。
また、「青」という語には、古代の色の概念が深く関係していて、赤、白、黒、青の四色しかなかった古代では、青色の領域がもっとも広く、黄色や緑色をも含んでいたとされる。その為、洞窟墓が多い南方の島々では、そうした洞窟の薄暗い明りの世界を青と言っていた。そうした青に含まれる概念が、黒潮に乗って列島に齎され、青と埋葬地という概念が海沿いの地に広まったと谷川氏は書いている。
そしてまた、青とは海の青さでもあり、そこには黄泉の国(冥府)を支配する海底(わだつみ)神が住み、人間の生死を司っている。海は命が生まれた場所であり、命は生を終えると再び海に帰るという思想がそこには有るように思う。ギリシア神話のポセイドン(ローマ神話ではネプチューン)も海神で、海を支配する神とされ、大地や地震なども支配し、自然をコントロールする力を持つ。洋の東西を問わず、海は人間の力の及ばぬ世界で、命の根源であり、また死と深く関わってもいる不可知の世界として存在し、こうした海の不思議な力を人々は感じていたように思われる。
こうして「青」という文字の付く地名が死者と密接な地であると理解したが、すべての地名に当てはまる訳ではないのだろう。例えば、東京の青戸という地名は「オオト」の訛ったものとされるし、青山という地名は、青山墓地(霊園)がある事から、埋葬と関連している地名のように思えるが、もともとは天正十九年(1591)に青山常陸介忠成が家康より宅地として賜った土地に由来し、埋葬の地とは関係がなかった。また、青山は青森に通じ、森は山の意であるとされていて、広葉常緑樹が繁った土地という意味なのだ。ただ、青山氏の青山という姓は、元来は地名由来であり、その地を調べてみなければ確かな事はいえない。
また、東京の奥多摩にある青梅という地名は、梅林の青い梅から来ていると漠然と思っていたが、この「アオウメ」とは青埋め、つまり亡骸(青)を埋めるという意味と考えられ無くもない。古代には人里離れた多摩川の上流の地が埋葬の地であったと考えてもおかしくはないだろう。
葬送に関連する地名は「青」ばかりではない。
大和の長谷寺で有名な長谷も、古くは初(泊)瀬と書き、命が「果てる」から来た「果つ瀬」が元の語とされ、古代には葬地として知られていた。
この長谷寺の末寺が各地に出来ると、その地に長谷という字(あざな)が生れ、それを「小長谷」と称するようになる。「姨捨山」で知られる長野市篠ノ井塩崎長谷も当地にある長谷寺から来た字で、長谷寺の裏山に長谷寺山があり、その昔山の名は「小長谷(おはつせ)山」と呼ばれていたという。この「おはつせ」が「おばすて」と転訛し、姨捨になったと『地名辞典』の著者吉田東伍氏は述べておられる。いうなれば葬地を意味する「はつせ」と棄老伝説が結びついた地名が「おばすて」なのだ。
このように、古代、死はすぐ隣りにあった。その多くは病死であり、中でも疫病がもっとも恐れられ、忌み嫌われていたに違いない。そこで、それにちなんだ地名も生まれる。
難読地名とも言える「一口」などもその一つで、京都府久世郡久御山町に一口と書いて「いもあらい」と読む地名がある。
この一口の口には、峠や谷間の入口という意味があるらしい。そこから、疫病などの忌みするものが集落に入らぬように、その入口で「忌み祓い」する場所としてその地を「イミハライ」と呼び、それが「イモアライ」に転訛し、一口という地名の読みとなったという。
おそらくこの「一口」は、口に入れる「ひとくち」ではなく、最初・一番目のという一の鳥居と同じような最初の入口という意味の「いちのくち」という事だろう。
その地には、疫病である疱瘡を祓う神が祀られた一口神社がある。東京の九段北にある一口坂(ひとくちざか)は、江戸城を築いた太田道灌が、娘の疱瘡の快癒を祈願して山城一口神社を分祀した「一口(いもあらい)神社」からきた名前で、読みが「ひとくち」となったもののようだ。ならば「いもあらいざか」で良さそうなものだが、「芋洗坂」(いもあらいざか)という坂が江戸には別にある。それは現在の六本木交差点から斜めに鳥居坂に抜ける坂で、その坂が「芋洗坂」と言われている坂なのだ。
ではその「いもあらい」はどうなのかという疑問が沸く。生憎、それに関する古資料には出会っていないが、ウィキペディアで調べると
「由来については諸説ある。一説には、付近に芋問屋が存在したことに因んで命名されたとされる。また、付近の神社に芋を持ち込んで市を開いていたこと、あるいは、付近を流れる川で芋を洗ったことに由来するという説もある。」
とある。しかし、この坂の先が鳥居坂で、神社に関係する事を考えれば、この坂も「いみはらい」から来ていると考える事もできる。
また「イモアライ」を「忌み・祓い」と解釈しているが、「疱瘡(いも)・祓い」であるという説もあると、谷川氏は別の例をあげる。大和国から吉野に抜ける峠に「芋峠」という名があり、そこには疱瘡神を祀る祠があり、別名「疱瘡峠」ともいう事から、イモとは疱瘡を指し、疫病である疱瘡祓いから来ているとする説も上げている。痘痕(あばた)とかいて「イモ」と読むのは辞書にもあり、疱瘡の顔面の痕を痘痕という事から、それに通ずる読みであることから来ているのだろう。
この痘痕をイモと読んだ由来は、鋳物師(いもじ)の鋳物から来ていて、鋳物の表面がぼつぼつしていることからきている。
いづれにせよ、「忌み」や「疱瘡」を祓っても、やがて死は訪れる。ただ生き長らえるにすぎないのだから、人は死としっかり向き合って生きて行く事が大切なのだろう。
現在の我国では、日常から死を排除し、死を極端に恐れ、出来れば目にしないように生きている。そのため、死は受け入れ難いものとして、過度な感情が惹起されているように思う。人間、生あれば必ず死もあるという事実を、なるべく考えないように生きていて、一旦身近に死を見るとどうして良いか分らなくなるようだ。
西行の歌に「終に行く道とはかねて聞きしかど きのふ今日とは思はざりしを」とあるが、現代人はさらにそれが自分に及ぶと考えないで生きている。
私たちは生まれた奇跡を、死ぬことで終える。それはどんな生物にもいえる。命に変わりはない。だからこそ、人や生き物の命はかけがえの無いものなのだ。
(2011.05.11吉尾記)
立春
今日は立春。しかし、陰暦ではまだ12月21日。年も明けていない。
古今和歌集の春歌上の最初の歌に、「ふるとしに春たちける日よめる」(旧年の内に立春が来た)として、在原元方の歌が上げてある。
年の内に春はきにけり ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん
これは、「年の明けぬのうちに春が来た。この同じ年を去年と言おうか、今年と言おうか」という意味の歌で、同じ一年の中で、この年の九月を去年の九月と言おうか、今年の九月と言おうかと、当惑する気持ちを歌っていると解説されている歌だ。
現在では、太陽暦を用いているので、太陽の運行に合わせた節季は、毎年同じ日前後に訪れるが、旧暦の太陽太陰暦では、今年のように春が年明け後とは限らなくなる。今年は新年までまだ十日もあるのだから、昔なら元方のように当惑する人も多かったに違いない。
これを不便と感じるかどうかは、価値観の問題だろう。太陽運行と日付はほとんど同じように連動しているのだから、近代合理主義的な価値観の下では、太陽暦が合理的と考えるのが普通だ。
現代では、多くの人々は太陽暦でしか生活していないので、元方のような感慨を持つ事はない。だが、合理的であるのが人間の幸せなのだろうか?日本の文化では、不合理な情緒、情感、情景など、西欧的合理主義では表現しにくい領域を大切にしてきた。
西欧的な価値観を端的に表現するなら白か黒かの二元論であり単純な文化で、一方、東洋的あるいは日本的な価値観では白と黒の間には無限の階層としてのグレー領域があり、それを大切にしてきた複雑な文化だ。たとえば、情景で言えば、一日を西欧的な二元論では昼と夜であり、わが国には自明の昼と夜よりも、その昼と夜の間の領域を大事にして、彼誰時(かわたれどき)、曙、薄暮、黄昏時(たそがれどき)などなど昼と夜の境界域を表す豊かな言語がある。
また、西欧では人と自然との二元対立構図だが、わが国は自然の豊かな表情に寄り添い、それとの共生を大切にしてきた。こうした心情の上に私たちの文化が育まれてきたことを思えば、たまには在原元方の歌った「ふるとしに春たちける」と当惑する感慨に思いを馳せるのも悪くはないだろう。
太陰暦の文化の良さは、この自然との共生が人間社会を豊かに創造する文化で、季節や月に関連した言葉を多く生み出している。
陰暦では春は正月から三月、夏は四月から六月、秋は七月から九月、冬は十月から十二月となり、ひと月は文字通り、一回の月の満ち欠けの時間、朔(さく)から満月そして晦(つごもり)までのおよそ三十日間をいっている。だから日にちを言えば、月齢が分かり、十五日は満月の夜で、朔日あるいは晦と言えば月の無い新月の夜となっている。
「つごもり」は「月籠り」の意で、大晦日を「おおつごもり」というのはここから来ている。そして、晦は大体三十日になることから「みそか」と読まれるようになった。「みそか」は三(み)十(そ)日(か)のことで、和歌の三十一文字を「みそひともじ」と読むのと同じ。
ちなみに、『古今和歌集』にある立春を歌った歌をいくつか紹介。
春たちける日よめる 紀貫之
袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん
二条のきさきの春のはじめの御うた
雪のうちに春はきにけり 鶯のこほれる涙いまやとくらん
雪の木にふりかゝれるをよめる 素性法師
春たてば花とや見らむ 白雪のかゝれる枝にうぐいすの鳴く
(2010.02.04吉尾記)
いたちのまかげ
資料として手に入れた古書を、徒然、拾い読みすることが有る。
時には、一度目を通した書物を、今度は息抜きに再び読み直す。そんな中で、改めて興味を引く記述に遭遇したりもする。
そんな記述の一つが、『松屋叢話』にあった「いたちのまかげ」について書かれた一文である。
「いたちのまかげ」とは、どういう意味だろうと読むと、それは、人が遠くを見るときに、陽の乱反射光を遮る意味で、手を眼上に翳す仕草を言っていることが分かった。漢字で書くと「鼬の目陰」となる。
ではなぜ、その仕草を「いたちのまかげ」というのか。
『松屋叢話』の一文に、それが書かれている。以下はその全文。
◯春海の世におはせし頃。源氏物語にメいたちのまかげモといふ事の見えたるがいぶかしきよし。常にいはれ侍りき。その家にて歌の会せられしをりに。橘千蔭。清水濱臣などにも。かたりあはされしかど。とかうことはりいひたるものもなかりしに。このごろ余がおもひたるふしあれば。こゝにいふべし。そは源氏東屋の巻に。いたちの侍らんやうなる心地のし侍れば云々。うしろめたげにけしきばみたる御まかげこそわづらはしけれとて。わらひたまへるが云々。手習の巻に。この君のふし玉へるを。あやしがりて。いたちとかいふなるものがさるわざする。ひたひに手をあてゝ。あやしこれは誰ぞと。しうねげなるこゑにて見おこせたり云々。源平盛衰記十三の巻十一丁に。赤ク大ナル鼬ノ。何クヨリ来リ参タリ共御覧ゼザリケルニ。御前ニ参リ。二三返走リ廻リ。大ニギゝメキテ。法皇ニ向ヒ参セテ。踊上リ。目影ナドシテ失ニケリ云々。二十二の巻八丁に。真平ハ残党モ猶不審シ。我館モ如何カ有ラント思テ高峯ニ上リ。眼影ヲサシ見渡セバ。山内ニハ人アリトモ覚エズ云々。など見えたるを考わたすに。今の世にも鼬の立て。前足を目上にかざしつゝ。人をまもることあるを。いたちのまかげとはいへる也けり。遠方のぞむ時は。かならじしも眼上に手をさしかざすわざ。今もむかしもなほおなじかるべし。
この「いたちのまかげ」は、『広辞苑』(第二版)にも「いたちの目陰(まかげ)」として、「手を眼の上にかざして遠方を見ること。(鼬が人を見るときそうするという)」とある。
私が興味を引いたのは源氏物語にあるということだったので、『源氏物語』を手にしてその箇所を確認したくなった。だが、それを確認するために、丸一日を要してしまったのだ。なぜかといえば、『源氏物語』原文を手にして、ちゃんと通読したことがなく、ましてやここに上げられている「東屋」「手習」の巻は後半の篇で、読み進める途中でめげて、これまで目も通していなかった部分だったからだ。
そんなこんなで、最初、ざっと目を通したが、当該箇所を見つける事ができず、二度三度と目を通すが、それでもどこに記載されているのか分からない。仕方なく一文一文、きちんと読むはめになった。そうして、ようやく二日目にその箇所に行き会った次第である。
悔しいから、その部分を『松屋叢話』より多めに引用しておこう。
「東屋」巻
「あやしく、心幼げなる人を、まゐらせ置きて、うしろやすくは、たのみ聞えさせながら、鼬の、侍らんやうなろ心地のし侍れば、よからぬ者どもに、にくみ恨みられ侍る」と、きこゆ。
「いと、さ言ふばかりの幼げさには、あらざめるを。後めたげに、気色ばみたる御目蔭こそ、わづらはしけれ」とて、笑ひ給へるが、心恥づかしげなる御まみを見るも、心の鬼に、恥づかしくぞ思ゆる。「いかに、おぼすらむ」と、おもへば、えも、うち出で聞えず。
「手習」巻
「夜中ばかりにや、なりぬらん」と、思ふ程に、あま君、咳きおぼれて、起きにたり。火影に、頭つきは、いと白きに、黒き物を被きて、この君の臥し給へるを、怪しがりて、鼬とかいふなる物が、さるわざする、額に手をあてて、
「怪し。これは、誰ぞ」
と、執念げなる声にて、みおこせたる、更に、「たゞいま、食ひてんとする」とぞ、おぼゆる。
こうして見ると、イタチは紫式部の時代から、人間社会と共に生きて来た野生動物だったことが分かる。
昔話にも、イタチの怪といって、さまざま言い伝えられるが、その中にも、後ろ足で立つ習性をもとにした以下のような話もある。
「イタチはよく後ろ脚で立って振り向いて人の顔をシゲシゲと見るという。この時、眉毛を読まれると騙されるから、イタチに会ったら眉に唾をつけると良いという。(鈴木重光『相州内郷村話』)」
かくして、イタチは古来から里山に住していた愛嬌のある動物だが、近年、その姿を消しつつ有る。
イタチの獲物は、魚やネズミ、ヘビなどの小動物で、人里近くにあって、時には人家で飼っているニワトリや小鳥などを襲うため、お互い敵対する事もあった。とはいえ、狐や狸、猪、猿同様、おおむね日本では人間社会と共生してきた動物だ。カワウソもしかり、ムジナやムササビも、わが国の里山は、そうした動物たちの生活圏で、人間も彼らと折り合って生きてきた。 (2010.01吉尾記)
江戸時代の地震の記録
先日のチリ大地震や1月のハイチ大地震など、最近、大地震のニュースが多くなっていることから、江戸時代の地震の記録を調べてみた。
以下が、江戸時代、関東周辺で起った地震の記録の一覧。
(1601) 慶長六年 十月十六日 満月の近く
大地震、房総の山を崩し、海を埋め、丘となし、又海上俄に潮引く事、三十余町干潟と成る。十七日、潮大山の如く巻上げ流死夥し。
(1627)寛永四年 八月 日付、月齢不明。
大地震。
(1630)寛永七年 六月二十三日 下弦
大地震。毛降る。
(1630)寛永七年 十二月二十三日 下弦
大地震。戌の刻光物飛行し、其の音すさまじかりし。
(1633)寛永十年 正月二十一、二十二日 下弦の近く
諸国大地震。小田原は別けて強し。同二十六日申の刻、大地震。
(1635)寛永十二年 正月二十五日 月齢24~25 下弦の近く
寅卯の刻、大地震。午未の刻、又地震あり。
(1649)慶安二年 六月二十日 下弦の二三日前
武州大地震。江戸中武家町家潰れ、死人怪我人多し(上野大仏像砕けしはこのとき也ともいふ)。
(1649)慶安二年 八月二十日 下弦の二三日前
江戸大地震。
(1662)寛文二年 三月二十四日 下弦の近く
午刻、大地震。
(1669)寛文九年八月十一日 上弦の近く
大地震。
(1703)元禄十六年十一月二十二日 下弦
元禄大地震。宵より電強く、夜八時頃地鳴る事雷の如し。大地震、戸障子たふれ、家は小船の大浪に動くが如く、地二、三寸より所によりて五、六寸程割れ、砂をもみ上げあるいは水を吹き出したる所もあり。石垣壊れ、家蔵潰れ、穴蔵揺れあげ死人夥しく、泣きさけぶ声街に喧し。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ、津波ありて房総人馬多く死す。内川一@あい差引き四度あり。此の時より数度地震あり。相州小田原は分けて夥しく、死亡の者凡そ二千二百人、小田原より品川迄一万五千人、房州十万人、江戸三万七千余人(内二十九日火災の時、両国橋にて死ぬるもの千七百三十九人といへり)也し由、ものに誌せり。此の時深川三十三間堂覆へる。二十四日夜より雨ふり、明け方に及びてゆり止む。其の後十二月迄、震ふ事しば/\なり。
(1704)宝永元年二月二十七日 新月の近く
地震。四月まで度々震ふ。
(1706)宝永三年九月十五日 満月
亥下刻、大地震。
(1707)宝永四年十一月二十日 下弦の二三日前
二十日より、富士山の根がた須走り口焼くる。天暗く雷声地震夥しく、関東白灰降りて雪の如く地を埋む。西南頻りにいなびかりあり。白昼暗夜のごとくに成り、行灯提灯をともす。二十三日殊に甚だしく、二十四日に至り天晴れ、皎日を拝して諸人安堵す。又二十五日、二十六日、再び天曇り砂降り、雷声の如き響き地震あり。是れより黒灰降る。
(1753)宝暦三年正月十六日 満月の近く
地震。
(1771)明和八年五月二日 新月の近く
地震。
(1771)明和八年六月二日 新月の近く
大地震。
(1782)天明二年七月十四日 満月の近く
天明の大地震。夜九時、十五日朝、大地震。諸人戸外へ出る。この間少しの地震は算へがたし(此の節、相州大山の辺ことの外強く、屋上より石を落し、山鳴りて恐ろしかりし。又小田原はわきて甚だしかりしとぞ)。
均庭云ふ。七月の初めより、小地震は日毎にあり。今十四日子刻頃、物音つよくゆり出し、人々寝入る頃なれば、殊に驚くこと甚だし。明くる日は空くもり残暑つよく、日暮を待ちかね端ゐして涼み居たるに、俄にゆり出し、壁をふるひ、瓦落ち、戸障子打ち倒れ、あやしき小家は見るまに倒るゝも多かり。地ひゞわれて氷紋の如し。八十年前元禄十六年大地震以後、かく甚だしき事あらずと、百年近き老人語りぬといへり。
(1786)天明六年二月二十三日 下弦
相州箱根山鳴動し、二十四日の頃、地震甚だしく、両日百度計り震ひしと云ふ。
(1794)寛政六年十一月三日 新月から二三日後
子刻、大地震。
(1826)文政九年春 月齢不明
度々地震。秋、又地震数度に及ぶ。
(1835)天保六年六月二十五日 下弦から二三日後
未刻、地震。
(1836)天保七年二月九日 上弦の近く
巳刻、地震。
(1847)弘化四年三月二十四日 下弦の近く
信州大地震、人多く死す。江戸も此の夜少しの地震あり(今年三月八日より、川中島善光寺如来の開帳ありて、諸国より参詣群集する事稲麻の如し。然るに浅間山の烟常よりも減りたるを怪しみ居tるに、三月二十四日昼夜快晴にてありしが、夜四時頃俄に大地震ひ出し、立所に家屋を覆し、圧に打たれて即死するもの幾千人といふ事を知らず。善光寺近辺の旅店は参詣の輩泊り合はして、この禍に逢ふもの有り。ともに数へがたし。無程くこの倒れたる家より火燃え出でゝ大火と成る。善光寺の本堂は傾きたる儘残り、其の余は悉く灰燼となりぬ。この時山中にのがれて利益を蒙り、一命を全うせしもの数多あり。又雷鳴の如き音ありて、尚ゆり出し、夜明に及ぶ迄八十余度、四月五月にいたりても尚止む事なし。大地は裂けて泥砂湧出し、其の間へ人家堕ち入り、丹波島より二里川上、虚空蔵山二十丁程崩れ犀川へ落ち入り、洪水溢れ、丹波川水押し出し、左右湖のごとし。焼死の人馬幾といふ事を知らず。或る筆記に三万人とあるは大凡の積りにて証としがたし。水内郡は殊に甚だしかりしとなん。其の他山崩れ、水溢れ、一村を流す。云々
(1853)嘉永六年二月二日 新月の近く
巳下刻地震三度、水溜桶の水溢る(此の日同刻、相州小田原の城下町々をはじめ、神戸、大磯宿、大山辺、箱根、伊豆の熱海、三島沼津の辺に至るまで、地震数度に及び、同夜子刻に至りて人家を覆し、火災起り死亡の輩あまたありしとぞ)。
(1854)安政元年十一月三日 新月の近く
辰刻半刻、地震(市中の者は大路へかけ出す。翌五日深夜まで数度震ふ。小川町諸候のやしきには厩潰れ、其の外土蔵の壁等所々に破損多く、長屋潰れて即死に及びけるもありし由なり。同刻伊豆国甚だしく震ひ、東海道筋これに亜げりと云ふ)。
安政二年(1855)十月二日 新月の近く
安政の大地震。細雨時々降る。夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の刻の二点大地俄に震ふ事甚だしく、須臾にして大厦高牆を顛倒し、倉廩を破壊せしめ、剰その頽たる家々より火起り、熾に燃上りて黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却す。云々(今夜四時より明方迄三十余度震ひ、其の余十月迄百二十余度に及べり)。
以上、『武江年表』から
近年の大地震は、
(1923)大正十二年9月1日
関東大震災。
この時、関東大震災の前駆活動と見られる揺れが8年前から起った。
(1915)大正四年11月
東京で有感地震が過去最多の18回
(1923)大正十二年5月-6月、
茨城県東方で200-300回の群発地震(有感地震は水戸73回、銚子64回、東京17回)
が起こり、本震が襲った。
そして、記憶に新しい
1995年1月17日 阪神・淡路大地震 満月
2004年12月26日 スマトラ沖大地震 旧暦十一月十五日 満月
2008年5月12日 四川大地震 月齢6.6 上弦
2010年1月15日 ハイチ大地震 新月
2010年3月1日 チリ大地震 満月
などが起っている。
これを見ると、先般、月の引力が関係するという論文があったように、記録される大地震が、満月・新月の前後、下弦の月前後に集っているのが分かる。
関東地方は下弦の月から新月期、満月前後が多い。
今日は、月齢19で、下弦の日は三日後。8日から新月の16日が要注意か、などと考えてしまった。(2010.03吉尾記)
天地人
何をいまさらと言われるかもしれないが、今日はこの「天・地・人」についての雑話です。
『近代世事談』という江戸期享保年間に上梓された書を、ちらほら拾い読みしていたら、この「天・地・人」について書かれた一文があった。
◯人字訓(ひとのじくん)
人と云は一ツの下略(げりゃく)、ひとつと云事也、人は万物第一にして、日とゞまるの義、日の精霊たる名也、故に人の神魂(じんこん)、みな火気に属す、日の字は円形(えんぎょう)の中に一の字也、[◯に一(古文如レ此)]人は天地の霊一とし、日輪の徳をそなへたり、人に一を副て大とし、大に一を添て天とす、人と天地と、二物にあらず、天地同一体なり、因て天地人と云也
ここに、「人」という字の訓読みが「ひと」と読む理由が書かれている。
これによれば、人という字は、「ひとつ」という言葉の下の「つ」を省略して「ひと」というとある。続けて、「人」を「ひとつ」という意味は、人は「天・地」(地球と宇宙)と一体となった「ひとつ」の存在で、それを現した言葉が「天・地・人」であると言っている。そして、「人は万物第一にして、日とゞまるの義、日の精霊たる名也、故に人の神魂(じんこん)、みな火気に属す、日の字は円形(えんぎょう)の中に一の字也、人は天地の霊一とし、日輪の徳をそなへたり」とその語義を述べた文である。
では、「人」という文字の音読み「じん・にん」はどうだろうか?
その音は「仁」という文字の音「じん・にん」と同じで、ようするに「人」=「仁」であることが分かる。この「仁」という文字は、「人」と「二」からなり、「二」は見ての通り天と地を表していて、「仁」という文字は「天・地・人」合一の文字である。
孔子は徳目の中でも「仁徳」を最高の徳と言い、それは人間の自然な愛情に基づいたまごころの徳であると言っているが、この書でも「人」の語義ついて、「人は天地の霊一とし、日輪の徳をそなへたり」と言っていて、孔子の言う所と同じ意味合いとなっている。
また、「仁」の訓読みは「ひとし」だが、これは「仁」は「人」にひとしいという意味合いだろう。
鑑みて、現在、我々が住む世界に、「人」と言える人間が人として行動したり、生活を行なっている人間がどれだけいるのだろうかと疑問になる。私には「人非人」ばかりが跋扈しているように写るのだがどうだろうか。
この書に「日輪の徳をそなへたり」と有るが、我々が「日本」(日の本)と名付けた地の、その名に恥じないために、今一度、「人」=「仁」であることを見つめ直してみたい。(2010.03吉尾記)
近代世事談から
この『近代世事談』は、享保年間(1716?1735)に書かれた日常の事物などを解説した書。著者の菊岡沾涼は俳人で、広く書籍を集めていた人物ということです。
今から三百年前の物や言葉の概念を知る上で参考になり、現代から見れば間違った解釈もあるかと思いますが、今では忘れられた事物や言葉の意味、概念を知ることが出来ます。それを知る事によって、中近世の世界をさらにリアルに想像できるのではないかと思います。
煙草について
金絲烟(たばこ)
慶長十年に、はじめて南蛮より種をつたへて、長崎桜馬場にこれをうゆる、後山州花山に刻売、是を花山たばこといふ、又吉野つゞいて丹波にうゆる、初は竹筒に入て烟を吹く、是に請取渡しの礼あり、今はすたれり、中華(もろこし)には烟酒と云、火気薫蒸して表裡に徹す、酒を呑がごとし、よつて名付り、たばこに其功四ツあり、一には飢時是を以飽しめ、二には飽食に是を以饑(すか)しめ、三には醒時是を以酔しめ、酒後にこれを以すれば、痰をくだし、残れる酔をとかしむ、四に鬱気を散す、後水尾院御製
もしほやくあまならねども煙草、なみよる人のしほとこそなれ
とある。
『武江年表』「慶長十年(1605)乙巳」の項にも、
◯南蛮よりタバコ、蕃桝(とうがらし)を渡す。長崎にて桜馬場へはじめてタバコを栽うる(一説、天正中蛮人持ち渡るともいふ)。
とあり、アメリカ大陸原産のタバコは、コロンブスが新大陸を発見してからおよそ百年後に日本へもたらされたのだ。また、「慶長十二年」の項に、
◯煙草諸州へ弘まる。上下これを翫ぶ(始めは葉を刻みて紙に貼し、これを巻きて火を吹き、其のけふりを吸ひ、其の後は、きせるを用ひて紙に貼せず。きせるの製は真鍮を用ひ、或ひは竹のラウを用ふ。又、丈長きものを下部にもたせて、遊行せる図も見えたり)。
とある。タバコは日本に渡来して僅か二年で、全国に普及したのです。
後半のタバコの四つの功が面白い。
まず、お腹が空いている時には、それを忘れさせ、食べ過ぎる時には、タバコを吸えば押えることができる、とある。これはニコチン作用で胃酸がコントロールされるからだろう。三つ目、醒めている時には酔わせ、飲酒後のタバコは痰を取り、酔いを溶かすとある。確かに、タバコを始めて吸った時にはクラクラして酔った。痰を下すかどうかはちょっと疑問だが、下戸の私は酒を飲んでいる時には、タバコが良く進む。そのお陰で悪酔いせずに済んでいるのかもしれません。ともあれ、私には四番目の功が一番かもしれない。鬱気を散らすという事は、鬱気の有る私としては有り難い。今後、喫煙できなくなると、私は鬱病になるぞ。禁煙で健康を悪くするタイプです、私は。
江戸の飲食店について
慳貪(けんどん)
江府瀬戸物町信濃屋といふもの、始てこれをたくむ、そのゝち所々にはやりて、さかい町市川屋、堀江町若菜屋、本町桐屋など、名をあらそふ中に、鈴木町丹波屋与作といふものぞ、名高かりし也、これをけんどんと号るは、独味をして人にあたへざるの心又給仕もいらずあいさつするにあらねば、そのさま慳貪なる心、又無造作にして倹約にかなひたりとて、倹飩と書と云説此よろし
という食べ物屋が流行ったという。サービスを極力排除し、低価格、短時間で飯が食える場所だった事から、江戸っ子に受けたのだろう。『廣辭林』(新訂版)には、「昔時、江戸にて、饂飩・そばきり・飯・酒などを、客の需めに応じて一杯づつ売り、すすめもせず、極めて無愛想の客あつかひなりし飲食店、恰も一膳飯屋に似たるもの。慳貪屋(けんどんや)。倹飩。」とある。
現代で言えば、立ち食い屋、セルフサービス店、愛想の悪い主人のいるカウンター店という所か。今の「立ち食いそば屋」は「慳貪そば切り」と言った。
上記の慳貪屋で売られていたものに、そば切りがある。そのそば切りとは、現代の蕎麦のこと。
蕎麦切(そばきり)
中古二百年以前の書、もろ/\の食物を詳に記せるにも、そば切の事見えず、こゝを以見れば、近世起る事也、もろこし河漏津(かろんしん)と云、船着の湊の名物、茶店に多これを造る、よつて河漏と云、是日本のそば切の事也、江府のそば切の盛美(せいみ)には、諸国ともに及がたし
とあり、『廣辭林』には「食品の名、蕎麦粉を水にて捏ね、これをのして細く切りたるもの、茹でてつゆを掛け又はつゆに浸して食用に供す。そば。」とある。
一般に私たちが食べているものを「蕎麦」(ソバ・そば)というが、これはソバという植物の名で、正しくは「そば切り」というのが正しいようだ。
昔時、中国の船着き場で多く売られていたとあり、今で云う駅の立ち食いそば屋の原点だろう。短時間で簡易な食べ物屋は、待ち時間のうちに利用できて重宝がられるのは、昔も今も変わらない。(2010.02吉尾記)
近代世事談から(二)
江戸のスィーツ
今回は、江戸時代の江戸の人々のスィーツともいえるお菓子の記述を紹介します。
◯干菓子
菓子は今云水菓子(みずかし)の事也、よって菓子(くだもの)の字を用往古は今砂糖を以製する菓子なし、桃柿柑類等を用ひたり、伝云、干菓子は、本草に出たる所の白雪?(はくせつこう)にもとづき製之、中古あるへい糖こんぺい糖の類を渡す、これに倣て数品の干菓子を製すと也、堂上(どうじょう)の御菓子は、一條の虎屋近江二口屋能登製之 御用の御菓子は、銀町大久保主水製之
(注)
水菓子=食用となるくだもの。果物。
白雪餅=菓子の名。蓮の実を加へて製したる白色の落雁。
落雁=菓子の名、炒粉に砂糖を加へ、型に入れて種々の形に製したるもの。
あるへい糖=有平糖。アルへイルにて種々の形に拵へたる菓子。
アルへイル(Alfeloa:ポルトガル語)からきた名称。
アルへイルとは、砂糖を煎じつめ、練りて飴のやうに固めたる物質。氷絲糖。
こんぺい糖=金平糖。コンペイトー。ポルトガル語のComfeitosの転訛。菓子の名。
氷蜜に饂飩粉を加へたるものに、炒りたる芥子を種として、掻きまはして製したるもの。
氷掛。氷掛=金平糖の製法、銅盤を火上に置き種に氷蜜をたらし掛け、数度かきまぜて製す。
堂上=公家
御用=将軍家
銀町=今の白金町
◯鹽瀬饅頭
京建仁寺第二世龍山禅師宋に入る、中華の人林和請の末裔林浄因といふ者、龍山の弟子と成る、元順宗至正元年に、龍山本朝へ帰る、林浄因從ひて本朝に来り、奈良に住し、氏を鹽瀬とあらため、饅頭を製す、これを奈良饅頭と云鹽瀬浄因の子あまたあり、一人龍山の弟子と成出家す、建仁寺の中両足院の開祖無等以倫是なり、以倫の弟鹽瀬某京におゐて製之 烏丸の鹽瀬の祖也 又林氏と呼は林和請の裔なれは也
これは、現在、東京にある和菓子舗『塩瀬総本家』の起源・由来を記した江戸時代の記述のようだ。
『塩瀬総本家』のHPに、
「塩瀬の歴史は、650年ほど前に遡ります。貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです。」
とある。
ここの饅頭は、江戸時代に、鹽瀬饅頭あるいは奈良饅頭という一般名詞として知られていたのだろう。
◯丸屋求肥
寛永の頃、上使出雲の大守、京都にて求肥飴を召れ、江戸へ御帰府あつて、此菓子を尋させられしに、そこころいまだ江戸に求肥を製する者なし、それゆへ京都におゐて、求肥飴を丹煉したるものをめさるに、中嶋浄雲といふ者、江戸へ来て製し上る、とつて其頃は扶持方四季施等を拝領す、今神田鍛冶町丸屋播磨其裔なり是江戸にて求肥を造るはしめ也、よつて求肥屋と云
(注)
求肥=ぎうひあめ。求肥飴。[牛の革に似たれば此名あり。もと牛皮と書きしが、後に忌みて改む。] 菓子の名、澱粉に砂糖を入れ飴を加へて煮固めたるもの。ぎうひ。求肥糖。
◯大佛餅
根元は京誓願寺前にてこれを製す、今以堂上方へも召さる、至て其風味格別也、又方広寺大仏殿の前にあり、これ又好味なり、江戸浅草にて製するは、これを倣て大佛餅の名目を以す、近世数品の餅あり、いが餅さつさ餅あん餅くり餅の類ひ多く、提重杉折に盛りて美を尽せり、又ぼた餅は、むかしははなはだ賞玩せし物なれども、今はいやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし、牡丹のかたちに似たるにより、牡丹餅と名付、又萩の花かい餅ともいふ、堂上方には、今とても御賞玩あるよし也、最明寺殿足利義氏の許へ鶴岡社参の序に、立よらせ給ひしに、一献にうちあはび、二献に海老、三献にかい餅にてやみぬと、つれ/\草に見えたり、今も片田舎にて、歴々のふるまひをぼた餅にて饗応は、むかしの遺風なり、かならず古実は田舎に残れり、繁花の地にはうしなへる事のみ多し
○大佛餅=京都の名物餅、京都方広寺大仏殿前の餅屋にて売り出ししもの、形小なれど風味勝れ、上に五 三桐の焼印を捺す。
いが餅=毬餅。菓子の名、?(しんこ)に餡を包み、?(もち)米を上面につけて蒸したるもの。
さつさ餅=笹餅。?粉(しんこ)を水にて捏ねて煮たるを、臼に入れて搗きてちぎりたる餅。
あん餅=餡餅。あんも。餡を上につけ又は中につつみたる餅。
くり餅=項目無し。
提重=提重箱。種々の肴をつめて提げ携へらるゝやうにつくりたる組重箱。提盒。
杉折=すぎをり。杉のへぎ板にて作りたるひらたき匣。現在、折詰と言われている容器のこと。
牡丹餅=ぼたもち。「おはぎ」の事。
萩の花かい餅=現在の「おはぎ」の事。
かい餅=かいもちひ。掻餅。飯の餅。ぼたもち。
◯幾世餅
根元は両国橋西詰にあり、前は鉄砲町に住して、すこしき餅を商ふ、此者の妹にかもんと云あり、この女の夫は蕨駅の某にて大百姓なり、渠と示し元禄十七年にはじめて店をかまふ、其餅甚味美にして栄ふ、今所々にこの名あるは、これに准もの也、何ゆへに幾世餅と名付たりや
(注)
幾世餅=項目無し。
◯花饅頭
本所回向院の前伊勢屋と云見世にして山城屋三右衛門といふもの、享保十年の秋のころよりうりそめける
(注)
花饅頭=項目無し。
◯米饅頭
根元は、浅草金龍山聖天宮の麓鶴屋也、慶安のころ、此家の女におよねと云あり、すぐれて才智也、此女はじめてこれを製すゆへ、およねがまんちうといへり
根元はふもとの鶴屋うみつらん、米まんちうは玉子なりけり
是遺侏がよみし狂歌也、遺侏は延宝の頃の歌よみ也、今に此所の米まんちうを名産とす
(注)
米饅頭=よねまんじゅう。菓子の名、餡を包みたる米の餅、円くして両端尖りたるもの。
以上、項目の注は、『廣辞林』(新訂版)による。 (2010.03吉尾記)
歴史の小話あれこれ
歴史資料を渉猟していると、自分の調べたいことの本筋からは外れているが、その内調べてみようかと思う事柄に出くわし、それをメモしている。
そんなことどもを、調べる前にここに書いてみる事にした。この先、それを調べられるかどうか分からないからねノ。
藤太っていうのは
藤原秀郷を田原藤太といい、津軽氏の祖藤原頼秀を炭焼藤太という。この渾名の藤太というのは藤原の「藤」と、太郎に通ずる男の子という意味合いの「太」の合成語で、藤太とは「藤原さんちの男の子」って意味だろうと勝手に推測した。
この推測を補完する資料にはまだお目にかかってない。
どなたかそれを証する資料、できれば一次資料をご存知ならご教示くだされ。
骨肉相争う
今、戦国大名家の成立をサイトにアップしているが、室町・戦国期の領主をみると、多くの家で家督争いや主導権争いで兄弟、親子が生死をかけて争っていることが分かる。特に親が兄弟の幼長を顧みず特定の子を溺愛した時に、それが顕著に現れるようだ。そして、その争いに膏を注ぐのが、家臣たちの欲得、利権争い。所領主という小さな利権集団でもこの有様。
ただ、残された資料だけではどちらに義があるのか、なかなか見えないのが残念。
翻って、現代の兄弟争いの嚆矢は、鳩山兄弟であろうか。権力を目指すと、本人同士の思惑を越えて、周囲の人間による権力争いが、その関係を利用して自己を利するように行動するので始末が悪い。
伊達騒動
久し振りに、民放で大型の時代物が放映される。それは、テレ朝の「樅の木は残った」で、田村正和演じる原田甲斐が主人公のドラマ。
ことの起こりは、伊達家三代の綱宗が「逆臣らのために誤られ、遊蕩度に過ぎ」という事で、二十一歳で隠居させられ、その後を幼少の亀千代(四代綱村)が継ぎ、その後見役に一門で幕府直参となった伊達兵部宗勝と田村右京宗良がなった。特に兵部宗勝は政宗の庶子で時の藩政を牛耳っていた。こうして伊達家の秩序が乱れる中にあって、さらに一門同士の所領争い、家老たちの権力争いが起こり、藩政は腐敗の一途。そうした中で、伊達安芸と伊達式部との間で所領を巡り争う事態となった。家老の原田甲斐は藩政を刷新しなければ伊達藩そのものが取り潰されると危惧していた。寛文十一年(1671)、大老酒井邸において、所領相論が行なわれる。その席において相論に着座していた原田甲斐は、逆臣安芸らを斬った。甲斐自身もその場で斬り殺されるという事件が勃発。
伊達藩の人々は一様に驚愕、取り潰しかと震撼する。この原田のショック療法が効を奏し、目覚めた伊達藩は、以後藩祖政宗の布いた体制を維持し、幕末まで無事に家は存続することとなった。
とまあ、ざっとこんな事件で、タイトルの「樅の木」とは伊達藩の譬えです。
大石内蔵助
『忠臣蔵』で名高い浅野内匠頭家の家老大石内蔵助が、秀郷流藤原氏の子孫小山氏の末だったと最近知った。
大石氏は再興した小山氏の三代左馬助持政の弟良郷が近江国栗太郡大石に移住し大石氏を名乗った。内蔵助が仕えた浅野氏は、秀吉政権の五奉行の一人浅野長政の子孫。秀吉の家臣だった浅野氏は、賤ヶ岳の戦いの功で近江二万石を拝領しているので、この頃、大石氏は浅野家に仕えたのだろうか。
いずれにしても、内蔵助は秀郷流藤氏で、我が祖平将門の仇ってことだな(w (2010.02吉尾記)
名前の読み
日本人の名前は、姓や名に関らず漢字の読みが幾通りもあって正しく読むのが難しい。仕事で出入りしているある放送局の女性スタッフの名前は「真愛」と書いて「まがな」と読むそうだ。「愛弟子」を「まなでし」と読むように、「愛」を「まな」と読むことから「真愛」は「ままな」と読み、それが転訛して「まがな」と読むのかと思ったが、当人から万葉集に「まがなし」とあり、そこから取ったようですという話を聞いた。そこで古語辞典を見ると、「真愛し」(まがなし)とあり、万葉集(十四、三十四)3567東歌として「置きて行かば妹は真愛し、持ちて行く、梓の弓のゆづかにもがも」という歌が挙げられていた。(万葉仮名では「摩可奈之」とあり、これに「真愛し」の文字を充てた用法。)また「愛」には人名で「ちか、なる、やす、よし」などの読みがあると漢和辞典にある。閑院宮愛仁親王は「なるひと」親王と読む。言われなければ読めない。このように人名の読みには、かなり強引な読み方がある。だからといって、イメージだけで元の字にない意味や読みを無原則に行って良いというものでもあるまい。先頃、朝日新聞に「稀星」と書いて「きらら」と読ませる出生届が受理されなかったというような記事があったが、当然だろう。その文字になんの関係もない音や意味の関連しない言葉を当てるのは間違っている。こうした無茶苦茶な漢字の読みは、極力排除されるべきだ。とはいえ歴史的人物名では文句は言えない。古代、日本人の名前はその言葉の音声だけで、「スサノオノミコト」は古事記では「須佐之男命」と書き、日本書紀では「素戔雄尊」と書かれているように、その音に輸入文字の漢字を当てたのだから、音の類似、意味の類似で表記していた。そのために史料により文字が異なるものが多い。これは日本語特有の言葉(音声)と文字の関係からで、名前に限らず同音異字の表記がしばしば史料に現れる。
この記紀の時代、日本人の名前はまだ個人の呼名だけであったが、それに豪族の名称(族名)や大王(天皇)が賜る姓、さらには官名・職名・地域名などの呼称を付けた氏(氏族)が生れ、個人を氏名で記したり名乗るようになる。(但し天皇家は氏姓を持たない)こうして時代が下がるとともに中央の支配層(公家)がその職業や居所の地名を家名として用いるようになり、さらに権力が武士階級に移ると、各地で多くの氏・家名から派生した苗字が生れ、苗字に名(幼名・通称・諱など)を付けるのが一般化した。それでも庶民はまだ呼名だけで、明治になってようやく誰もが苗字を名乗ることができるようになる。それとともに国民を管理(徴税・兵役など)する上での戸籍法が出来て、現代日本人の氏名(家族名と個人名)が確立した。
このように我が国の氏名は、中国や西欧のように氏族名(血族名や職業名・家族名)と個人名(呼名)が比較的判然としていて同族であるかないか分明な民族ではなく、近代までは氏族名・職名・地名などが混在する家名を苗字としたため、同族であっても苗字が違ったり、同音異字を用いたりして無数の名字が生まれたという。渡辺三男氏の『苗字名前家紋の基礎知識』によれば、たとえば加治(かぢ)という苗字は、武蔵国高麗郡加治庄から起った名だが、その分流は可知、賀地、梶、勝などの文字を用いた。また同じ「かぢ」氏でも「加地」という氏があり、この加地氏は越後国加地荘から起った氏で、桓武平氏城氏の分流と近江佐々木氏の分流があり、この加地氏も梶、勝など加治氏の分流と同じ文字を用いる分流があるため、同族であっても異なる苗字を用いたり、同じ文字を用いる苗字であってもその出自は全く違っていたりする。また「勝」氏は「かち」「かつ」などとその読みが異なっている場合がある。さらに同じ「勝」氏でも「すぐり」「すぐろ」と読む「勝」氏がいて、この苗字は「村主」から来た苗字で、前者の「勝」氏とはその出自を異にする。こうして同じ文字でも読みが異なる苗字が多いのも日本人の名前の特徴だ。そこでただ「勝××」とあっても、それを「かつ」と読むのか「すぐり」と読むのか判断できない。このように文字だけではどう読むのか迷う名前が多いのも日本人名で、「吉川」は「きっかわ」「よしかわ」、「立川」は「たてかわ」「たちかわ」、「新居」は「あらい」「にいい」など挙げれば切りがない。「東」も同じで「ひがし」か「あずま」か迷う。迷ったあげく「東常縁」を「あずまつねより」と読んだら、「とうつねより」と読むのだと指摘されたこともある。そして最近、「阿閉」を「あとじ」と読んでいたが、それが間違いだったと分った。「阿閉」は「あへ」あるいは「あべ」と読むのが正しい。この「阿閉」は伊賀国阿拝(あへ)郡から起った氏で、「阿拝」(あへ)が「阿部」「阿閉」「阿辺」などと表記され、さらに「あへ」が「あべ」に転じて発音されるようになったらしい。
こうして見ると、歴史上の日本人の名前は、文字(漢字)より言葉(音声)が優先しているようだ。以前、掲示板でも話題になった「和歌の前」「島の千歳」という白拍子の名前も、「若の前」「島の千載」と記した史料があり、どちらも同じ人物を言うように、昔の人は文字の違いよりも言葉(音声)を大事にしていたように思う。それゆへ、「加治」の同族が「梶」「勝」「賀地」と書いても、「かち」と読んでいる間は別名とは思わなかったのではないか。庶民の呼名もたとえば、「うしまつ」という者はある時は「牛松」と書かれ「丑松」「うし末」などと書いていたように思う。
本来得川であった徳川も、「得」と同じ音である「徳」の字を当て、その漢字の持つ意味合いが「得」よりも「徳」の方が良いからと家康は「徳川」を名乗った。その徳川もまれに「とくせん」家と呼ばれるのだから、日本人名は難しい。さらに右府だの内府だの越前だのと役職名でよんだり、金吾や黄門などの唐名で呼んだり、その人物の年代により晴信を信玄、景虎を謙信などの号名で呼ぶのだから、日本の歴史的人物名はややこしい。
真愛し考
『岩波古語辞典』には「真愛(まがな)し」とあり、『大言海』を引くと「まがなし」は「真悲」とある。どちらも「かなし」という語に接頭語「ま」がついた語とあり、『大言海』には万葉集の字句「摩可奈之」という万葉仮名が記されている。この「摩可奈之」は、「まかなし」と濁らずに読むこともできる。おそらく、当初は「まかなし」と清音だったものが、後に「まがなし」と読むようになったのではないか。また『岩波古語辞典』で「かなし」を引くと「愛し」「悲し」という文字が当てられ、「どうしようもないほど切なく、いとしい」「かわいくてならない」「何ともせつない」「ひどくつらい」などとある、このことから、後に「せつない、つらい」という意味の「かなしい」という用法に「悲しい」という文字を充て、「かわいい、いとおしい」という意味の言葉に「愛おしい」と愛の字を用いるようになったように思えるのだが、先学のご教示を賜りたいと思う。
(2007.9.5吉尾記)
すたすた坊主
傀儡子や比丘尼を調べていると、江戸期には、さまざまな生業の人々がいたことがそれらの資料から窺い知れる。そのほとんどは、江戸期に現われ江戸期に姿を消し、今ではその頃の日記や随筆、絵図などで知るだけで、実際のものを見る事はない。だから、文字から想像するだけになる。畢竟、それらの字面や語感で何となく理解することで終ってしまう。この「すたすた坊主」という名前を目にした時も、面白い名前だなあと思い、一体これは何だろうと想像した。坊主の格好をした人が、スタスタと歩き、道行く人に説教でもするのだろうかなどと思っていた。ところが今回、瀬川如皐(二世)の著した『只今御笑草』(「続燕石十種」第三巻所収)を見ると、想像とは随分違ったものだという事を知る。参考までに、その部分を下に紹介。
「すた/\坊主 今も折ふしには見受る者ながら、明和の初迄は数多ありて、町々をあるきものせる、そのさまあか裸にて、しでさげたる注連の如き者を腰の程に巻、大注連の如く拵たる藁の鉢巻しめ、やれ扇、錫杖を持、さもいさましくおどりものして、
すた/\や/\、すた/\坊主の来る時は、世の中よいと申ます、とこまかせてよひことなり、お見世も繁昌でよいとこ也、旦那もおまめでよひとこ也、とこまかせでよひとこ也、
其外にもよいとこ尽しをしやべりものして、門々をおどりあるけり、」
(2004.11.15吉尾記)
鼠小僧
映画やTVの時代劇や小説の世界でしか知らなかった名前が、史料に現われるとつい引込まれてしまう。宝暦期の俳人と思われる四壁庵茂蔦という人が著した『わすれのこり』と云う書に、「鼠小僧」の記述が有り、興味を引かれた。それには、
「鼠小僧 次郎太夫事次郎吉、八町堀に住し大盗なり、常は袁彦道を以て表の業とす、此者度量広く、瑣細の盗みを為さず、常に諸侯の奥向へ忍び入り、手元金を奪ふ、生涯に贓金一万両余といふ、また慈悲心深く、難義の者を救ふこと多し、故に其名顕る、此者の伝は、芝居狂言、または絵草紙、講釈師など、往々いひ尽したれば、今記するに不レ及、彼の者刑せらるゝ時、紅粉を塗、美服を着て引かれし、予若年のときまのあたり見たり」とある。鼠小僧次郎吉が実在の人物だったことを、初めて知った。また、「袁彦道」なる言葉も初見で、何だろうと思い漢和辞典で調べると、袁彦道(えんげんどう)と有り、晋代にいた博奕の名人。転じて、ばくちのことと有る。義賊次郎吉さんの普段の顔は博奕打ちだったんですねえ。
ついでだが、同書に池波正太郎氏の名作『鬼平犯科帳』でお馴染みの鬼平こと長谷川平蔵についての記述があるので、以下に抄録。
「長谷川平蔵殿 本所花町に、火附盗賊改長谷川平蔵殿勤役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓智の捌多し、名高き稲葉小僧といふ賊も、其手にて召捕られたり、人々、今の大岡殿と称し、本所の平蔵様とて、世にかくれなし、上にも、町奉行になされ度き御含なれど、持高の少き故に、其御沙汰もなかりし、云々」
ここにあるように、長谷川平蔵はやはり名役人だったらしい。さらには小禄だったため、町奉行には成れなかったことも初めて知った。又、何所かで聞いた「稲葉小僧」という盗賊の名も出ている。
(2004.11.13吉尾記)
御湯殿の上の日記
歴史の門外漢であった私は、師の小説でこの『御湯殿の上の日記』という資料があるのを初めて知った。これが禁中の女官達が記した書ということもその時知った訳だが、湯殿を浴室と思って、その上に女官達の部屋がありへんな場所にあるのだなあと思ったが、冬の寒い季節にはオンドル効果で案外と良かったのかもしれないなどと一人合点していた。
ところが最近読んだ『硯鼠漫筆』(せきそまんぴつ)という幕末の国学者黒川春村の書いた書の中の「御湯殿上日記」という項で、湯殿が浴室の事ではないことを知った。そこには「御湯殿上日記数十巻あり。文明頃より慶長頃迄の禁中女房の仮字日記なり。さて御湯殿を辺鄙の学生は浴室とおもひまがへて、此御日記の在どころこそこゝろ得られねと問おこせたる事ありき。都遠き田舎人などはしか疑へるもことわりなりけり。これは御浴殿には非ざるなり。永正八年家中竹馬記云、私云、御前とは禁中にての御前なるべし。御湯殿のうえと申すは、きこしめさるゝ御茶の湯せらるゝ処を申す。御所にては(春村曰、将軍家の御所也。)常の御所の御次也とあるを見るべし。今武家にていふ御茶の間、是なり。」とある。
まさに私は文中の「都遠き田舎人」であった訳で、江戸時代の人々の中にも御湯殿を浴室と勘違いし、なぜそんな処に湿気に弱い紙の日記を置くのかと疑問をもっていた「辺鄙の学生」がいた事にニンマリした。
しかし、まだ一度もこの『御湯殿上日記』に目を通したことがない。(吉尾記)

HOME
