剣術流派五

その他の系統

未分類、未整理の流派を含む。

鞍馬八流(くらまはちりゅう) 

源平時代に吉岡鬼一が創めた剣の流儀と伝えられ、鞍馬寺の僧八人にその秘訣を授けたことからこの名がついた。
相手の刀の峯に乗り、相手の引く力を利用して、頭上高く飛び、相手の背後に着地する技の型がある。(『吉原御免状』19p)
この鞍馬八流は、「京流」とも呼ばれるもので、確かな資料はなく、そのような流儀が存在したかどうか疑わしいと、直木三十五氏はその書の中で述べている。以下にその部分を紹介。
「東方に於ける剣客の勃興に対し「京流」が西に現れているが、これの正体は甚だ怪しいものである。堀川鬼一より鞍馬の僧に伝え「京八流」とも称すというが、恐らくは、東の人々が、東方の剣法以外のものを総称して「京流」と云っていたのでは無かろうかと思われる。もし「京流」が一流儀の名なら、その流祖は多少とも伝えられていなくてはならぬ筈である。それに、京師にも一記録なく、ただ『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』位に漠然として「京流」とのみ書かれているだけであるから、西の人々の使う剣法を総称して云った称号としておいていいと思う。」(直木三十五著『剣法夜話』)
「京八流 兵法家鬼一法眼(きいちほうげん)は堀川の人である、軍法弓馬剣術をことごとく人に教え、鞍馬の衆徒八人に伝えた、剣術に京の八流というのはこの鞍馬八人の衆徒が伝えた流儀である、源義経もその八人の弟子のうちの一人であるという、天狗に剣術を授かったというのは固より嘘である、このことは貝原益軒の知約という抄本のうちにある。(桂林漫録)」(中里介山著『日本武術神妙記』より)

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心形刀流(しんぎょうとうりゅう)

伊庭是水軒秀明(常吟子)を流祖とする。初めは本心刀流と称した。
これは、「剣を抜いて敵と相対するとき、心中には敵を撃とうと思う心と、恐怖をおぼえて逃れようとする心が生ずる。この二つの矛盾する心のうち、どちらが本心かといえば、それは恐れて逃れようとする心であり、撃とうとする心はうわべのつけ元気に過ぎない。この偽らざる本心をありのままに認め、それを鍛えて、いかなる場合にもひるむことがないようにするのが本心刀の精神である」というにあった。しかし、本心を鍛えるためには、まず形をつくる(技を磨く)ことから始めねばならないことから、のちに流名を心形刀流としたと松浦静山はその著『剣攷』で述べている。
この流派の道統は伊庭家だが、伊庭家は実子の有無に関わらず剣の道において最もすぐれた者をその後継者としたことから、長く栄え、十代伊庭想太郎(明治四十年没)にまで至った。心形刀流の継承者は代々、常吟子・常備子のように常○子と号した。また、この心形刀流は比較的新しい流派であるが、文献が豊富で、その心術と技法がよく整備されている。これは肥前平戸城主であった常静子松浦静山の功績によるとされる。その静山は前掲の『剣攷』と『常静子剣談』の中で心形刀流の心と技を解説している。
剣技には、「切甲刀」「乱車刀」「獅子乱刀」など敵味方入乱れての戦場を想定した実戦本位のものが重視されるとともに、「鷹の羽」「三心刀」「無拍子」など、二天一流以外ではあまり見られない二刀使いの技法もかなり含まれていて、受けて立つ柳生新陰流とかなりの相違が見られる流派。
『心形刀流目録序』(常吟子筆)
「それ兵法は心の妙徳なり。故に修力実らざれば更に得難し。本、勝負無し。勝つを求めず、勝つこと自然なる者なり。譬えば立つときは則ち響有り。電光石火、明鏡の研鬼を現わすが如し。心休すれば自由なり。その味わい窮まり無し。言語文字の及ぶところの者にあらず。平生、直を以てこれを養い、克くこれを勉めよ。表刀の剣なり」
江戸番町に道場があった。

伊庭秀明(いばひであき) (1648~1713)
是水軒。常吟子。信州出身。心形刀流の祖。
各地を遍歴し広く諸流を学び、大和の山中で妻片貞明(謙寿斎)という隠士にめぐり会い、その教えを受けて大悟。江戸に戻って一流を開く。その最初の流名は「本心刀流」と称したが、後に「心形刀流」に改めた。

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吉岡流よしおかりゅう)

宮本武蔵と仕合をしたとされる吉岡憲法の流派。鬼一法眼の京八流の末ともいわれ、また神道流あるいは新当流の流れを汲むともいう。
『武芸流派大事典』によれば、吉岡直元が天文年中頃、足利十二代将軍義晴に仕えて軍功があった。その弟の直光(憲法)も足利将軍に兵法師範として仕え、今出川に住し、吉岡兵法所という道場を構えた。その子直賢(これも憲法といい、『剣法系図』では又三郎)は義昭に仕え、同じく兵法師範をしているが、この吉岡直賢が俗説で武蔵の父新免無二斎と試合をしたのは吉岡憲法ではないかとされている。
司馬遼太郎氏によれば、西洞院に兵法所を構える京流の吉岡家のことを京の庶民は親しんで、「けんぽうも家」と通称していた。「正直のけんぽう」とも呼ばれ、家号の憲法は、歴世、正直を家憲にしていたからともいい、兵法所を構える傍ら、明人李三官から教わった黒染色を工夫し、染屋を兼業していたという。吉岡直元を家祖とし、直光、直賢、直綱とつづき、当主はいずれも温厚で、一見、商人と見違えるほどだったと書いている。
さらに、武蔵が挑戦した吉岡憲法は吉岡源左衛門直綱で、慶長九年(1604)か十年頃とされ、「当時、徳川政権の成立早々のことでもあり、京都所司代板倉伊賀守の市政は手きびしく、いやしくも市中の騒擾をゆるさなかった。京の旧家である吉岡家は、私闘をすることを好まず、仕合のことを所司代にとどけ出た」。市中騒擾を恐れた伊賀守勝重は自分で検分することにして、仕合は所司代屋敷で行われた。伊賀守の検分では「相打ち」と決ったとある。
『吉岡伝』にある武蔵と憲法の戦いはこれだけで、『武蔵伝』にある「蓮台野の決闘」も「一乗寺下り松の決闘」も出て来ない。
吉岡兵法所は慶長十九年(1614)、禁裏で猿楽の催しがあった際、吉岡一門の清次郎重賢が錯乱して抜刀騒ぎを起したために閉鎖された。この事件で吉岡憲法は「自ら道場を閉じ、弟とともに縁者の三宿越前守長則のもとに身をよせて、しばらく京に帰らなかった。三年ののち京に帰ってからは、染屋を専業とし、晩年は兄弟とも円鑑禅師に帰依して禅に凝り、天寿を全うしている」と司馬氏は書いている。また、『吉岡伝』および『雍州府志』によると、大坂冬の陣が起った時、徳川幕府は所司代を通じて吉岡一門が大坂方に従軍しないように釘をさしたが、彼らは三宿越前守の招きに応じて大坂城に入ったという。敗戦後、京に戻ったが再び兵法を稼業とするのを恥じ、門人の李三官から黒染めの法を伝えられて染物業に転じ、財をなした。これを吉岡染め、兼房染め、憲法小紋などという。兄弟ともに天竜寺の大徳円鑑国師に参じ、兄は透関不住、弟は学宝宗才と号したとある。

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新当流(しんとうりゅう)

長巻(長太刀)の流派。穴沢主殿助盛秀を祖とする、長巻(長刀)・槍の術。徳川家康は若い頃、新当流の有馬満盛から長巻の秘伝を受けているという。「穴沢流」ともいう。

穴沢 浄見(あなざわ じょうけん)
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穴沢 主殿助(あなざわ とのものすけ) 
薙刀の名人。
穴沢主殿助盛秀は薙刀の名人で豊臣秀頼の師であった、相手に竹槍を持った二人を前に立たせて仕合をしたが、必ず勝って少しも危げが無い、大阪の冬の陣に、上杉景勝の将直江山城守が兵士折下外記(おりしもげき)と渡り合い、折下は直槍、穴沢は薙刀であったが、穴沢は薙刀のそりにかけて、折下の直槍をはね、飛び入ってこれを斬った、折下は肩を切られながら槍を捨てて引組む処を折下の従者が、折重なって来て終に穴沢は討たれてしまった。(武将感状記)(中里介山著『日本武術神妙記』より)

片山流(かたやまりゅう)

片山久安が起したとされる流派。

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願流(がんりゅう)

常州鹿島の人、松林蝙也の興した剣の流派。

鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)

幕末期の剣の流派。

鞍馬流(くらまりゅう) 

天正年間、大野将監を祖とする剣の流派。源義経から伝わると称していた。

穀蔵院一刀流(こくぞういんいっとうりゅう)

前田慶次郎が自らの刀法に名付けた名。戦場往来の介者剣法。

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正天狗流(せいてんぐりゅう)

池原五左衛門正重が起したとされる流派。

天流(てんりゅう) 

斎藤伝鬼が開いた剣の流派。

東軍流(とうぐんりゅう)

流祖は川崎時盛で、時盛は「白雲山の天狗」から教えられたと称した。

士浅間流(ふじせんげんりゅう)

中村一心斎が起した剣の流派。

六字流刀術(ろくじりゅうとうじゅつ)

一橋如軒斎が創始したとされる柔術と刀術を混合した、実戦的な術。現在、六字流柔術として伝わっている。『吉原御免状』『かくれさと苦界行』の野村玄意がこの剣術を如軒斎から学んでいる。『青楼年暦考』には、「市橋恕軒、野村良意へ免許剣術の巻物を見るに六字流柔術トアリ」とある。
又、三田村信節の『嬉遊笑覧』には、「柔気一流の名人市橋如見斎」として、居合の項で述べている。

一橋 如見斎(いちはし にょけんさい)
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野村 玄意(のむら げんい) (?~1686) 吉原御免状、かくれさと苦界行
吉原新町真字(まんじ)屋当主。
一橋如見斎に六字流刀術を学び、その技は達人の域に達する。吉原首代の頭領として警備の責任者であり、誠一郎の警護の責任者でもある。
かくれ里一掃のため大坂新町の傾城屋に向かう途中、鈴鹿越えの道でお館さまこと荒木又右衛門に切り殺される。
「一、新町野村玄意はそのころ隠れなき柔気一流の名人。市橋恕齊の弟子にて、宮本氏とも昵懇なり」と『青楼年暦考』(庄司家家譜)にある。
父は野村喜右衛門。妻は庄司甚之丞の女かね、子に小左衛門がいる。父喜右衛門は江州出身で、庄司甚右衛門の妻の甥に当たるという。

二天一流(にてんいちりゅう)

新免二刀流、武蔵流ともいう。宮本武蔵が考案した大小二刀を使う剣術。

武元流(ぶげんりゅう)

心地流皆伝の武田軍太が文政八年に起した剣の一流。

真心流(しんしんりゅう)

詳細不明。

心地流(しんちりゅう)

詳細不明。

武田 軍太(たけだ ぐんた) 狼の眼
心地流の免許皆伝を得て、直も廻国修行をする剣術家。三国湊で秋山要助に剣術試合を挑み敗れる。

薬師丸流(やくしまるりゅう)

詳細不明。

その他の武術流派

居合 関口流(せきぐちりゅう)

居合術の一流派。

関口 柔心(せきぐち じゅうしん)
弥六右衛門氏心(うじむね)。関口流居合の流祖。
林崎甚助の弟子の関口弥六右衛門氏心、号柔心が居合の伝を受け、三浦与次右衛門から組打ちの法を教えられ、諸国修行して、長崎で中国の拳法・捕縛を習い、工夫した上、一流を開いた。
柔心は寛文十年三月七日、享年七十四歳で病死した。
『日本武術神妙記』「関口柔心」の項参照。

関口 魯伯(せきぐち ろはく)
八郎左衛門氏業。関口流居合の祖関口柔心の長男。
関口柔心の後を嗣いだ長男八郎左衛門氏業、号魯伯は、十八歳のとき、男は位牌知行は取らぬものといって、承応三年から延宝元年十二月二十日帰参するまで、諸国修行中、小姓・若党各一人を連れて、京都に居住した時には、常に三尺三寸の大刀の鐺(こじり)に車を付けて引きずり、若党を立髪にして連れ歩き、子供などが笑うと「いざ抜いて見せん」と言って、その立髪の上に濡れ紙を置き、抜打ちに切って見せたという。また、「江戸逗留の頃は、芝浜松町に道場を立て、指南有りしとぞ。此の時虎蔵といふ童を召使ひ、外へ出らるゝ時は、此の虎蔵に刀をかつがせ、我よろ前に立てて歩行れし。虎蔵には伊達染または大縞の着物など着せ、朱鞘の脇差一腰さゝせて、大童の勇しき出で立ち、我は丸ぐけの帯に脇差帯し、或は鉄扇壱本など差して歩行されしと」(『柔話』文化九年序)と有り、かぶき者かぶれの伊達男だったと書かれている。(「好色一代男全注釈』)

居合 田宮流(たみやりゅう)

抜刀術を用いた居合術。

田宮 長勝(たみや ながかつ) 吉原御免状
田宮抜刀流居合元祖(田宮流開祖)。
田宮平兵衛重正嫡男。田宮長勝は後に紀州藩主、徳川頼宣に召され800石を得る。 父の剣法を全て受け継いで剣名高く、入門者も多かった。大坂冬の陣で、池田信輝のもとで功を挙げ、家康に気に入られた。家康は長勝を池田家からもらいうけ、御三家の一つである紀州の徳川頼宣の家臣とした。以後常円と号す。その子の平兵衛長家も達人で、三代将軍家光に招かれて抜刀術を演武。以後代々紀州家の師範をつとめた。

田宮 成道(たみや なりみち) 吉原御免状
孫次郎左衛門。田宮長勝の玄孫。

居合 林崎流(はやしざきりゅう)

居合の流派。
林崎の門下に、田宮抜刀流居合の祖田宮長勝の父重正がいる。

林崎 甚助(はやしざき じんすけ)
重信。居合の創始者。
林崎甚助の起こした居合術は、神夢想林崎流と号した。

居合 宝山流(ほうざんりゅう)

居合の流派。

浅田九郎兵衛(あさだ くろべえ)
美作森家の家臣。
宝山流居合の名士として名高い。
『日本武術神妙記』に「浅田九郎兵衛」の項あり参照ください。

鎗術 宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)

十文字槍の名人宝蔵院胤栄を祖とする槍の流派。

下風 道二斎(おろし どうにさい) 
下石平右衛門三正。始め山田瀬兵衛と称し、宝蔵院流二世胤舜に鎌鎗を学ぶ。松平直矩に仕え、後江戸に出て下石道二と称し、鎗術で天下に鳴った。播州赤穂で没。
道二斎は宝競院の末弟にて、鎗術の修練大猷院(徳川家光)様の御聴に達し、被為召御前に於て其頃浪人にて素鑓の達人一同に試合被仰付候節、御前にての儀ゆへ、高股立并掛声等制止之義御側向より沙汰有之、双方畏り候旨にて立合ける所、勝負に望みて、素鑓の浪人は右制止に随ひ、道二斎は高股立にて掛声も十分に致しける故、御近習より時々制止有之候共不相用、難なく道二斎勝になりければ、跡にて右制止を不用訳御尋有りしに、道二斎慎で、「御尋之趣御尤に奉存候。随分相慎み候存心には候得共、勝負に望みては矢張稽古の心にて十分に芸を尽し候儀故、御前をも不恐様罷成、制止を不用には無之、右之不届を以如何様被仰付とも是非に不及」趣御答に及びければ、大猷院様にも尤に思召、殊之外御賞美にて、下風は名人の由上意ありて、御褒美被下けるとなり。(『耳袋』巻之一)

桜井 半兵衛(さくらい はんべえ) (?~1634) かくれさと苦界行
美濃戸田家の槍術指南役。二百石。河合又五郎の妹婿。十文字槍の名手。霧の半兵衛の異名を持つ。寛永十一年(1634)、河合又五郎の助太刀として又五郎に同行。鎰屋の辻の決闘で荒木又右衛門によって斬られる。当年二十三歳と直木氏はその書に書いているので、逆算すると慶長十七年(1612)の生まれか。
直木三十五氏の『剣法夜話』に、「鎰屋の辻の決闘」前後の半兵衛を描写した文があるので、興味のある方は参照してください。

槍術 梅田流(うめだりゅう)

槍の流派の一つ。

槍術 伊岐流(いきりゅう)

直槍の流派。

弓術 日置流(へきりゅう)

弓の流派の一つ。

日置 弾正(へき だんじよう)
日置流弓術の祖。
日置弾正正次は大和の人で、我国弓術中興の始祖としてその名古今に傑出している、葛輪という弓の上手と京都に於て勝負を争って勝ち、それより名人の名を得たのである、内野合戦の時、この人の矢先にたまる者が無かった、矢種が尽きた時、土居陰にかくれていて、敵が襲い来ると、ふっと出て弦打ちをして「えい」と云えば、敵がその声を聞いて逃げ散ったという事である。(本朝武芸小伝)

弓術 吉田流(よしだりゅう)

日置流から出た弓の流派。

吉田 重賢(よしだ しげかた) 
上野介。吉田重賢は江州の士、日置弾正「唯授一人」の弟子で吉田流弓術の祖。永正四年(1507)に印可を受けた。
片岡家譜に曰う。
 吉田重賢は江州蒲生郡河森の里に生れた、母が夢に三日月が胸に入ると見て懐妊し、この子を生んだということである、七歳の春にこの母がわが子の天才を見込んで、
「お前はお月様の助けがあって生れた子供である、三日月は弓の形をしている、お前が弓を学べば必ず名誉の人となれる瑞祥であろう」といって小弓を与えて朝夕学ぱせたそうである。
 長ずるに及んで益々射芸に力を尽しその道の達人があると聞けば遠きをいとわずして行って学んだ、併し上達はするけれども未だ不測の妙所を極めるというわけには行かなかった、そこで明応八年の秋、吉田の八幡宮に一七日(ひとなぬか)参籠し神に祈っていると、満願の暁の夢に白髪の翁が一本の矢をもって忽然と現われてその手を上げて、「是を」といってかき消すが如く去ってしまった。
 重賢は深き感激をもって天文博士の処に行ってその夢を話して意見を尋ねると、博士がいうのに、
「夢に現われた白髪の翁が矢を上げる手というのは、上手の二字を示すことである、また右の老翁が『是を』といった『是』という字は日一と人を合せた字である、だから君は弓にかけては日本一の上手となるべきよき夢を見たのだ」といわれて重賢喜びの思いをなし、故郷に帰って尚一層の勉強をしているとその翌庚申年正月の十九日ふと年齢五十余りの人が来て重賢に向っていうことには、
「そなたが弓を学ぶ志の深いことはわしはよく知っている、わしはこの道にかけて奥儀を極めているものだ、今そなたにすっかり伝授しようと思って来た」重賢は喜び甚だしく、その人の姓名を聞くと、
「日置弾正」
 と答えただけで、何処の人だとも、何処から来たとも云わない、併し言葉つき形容、泰然として世の常の者でないことが分るから、礼儀を極めてこれに仕えた、嫡子の出雲守、その頃は十六歳であったが父子共に昼夜親灸してその人に就いて学ぶこと七年、永正四年正月中旬に至って悉く秘術を極め印可を受け畢った、そうして同じ年の九月中旬になると日置弾正と名乗った人はいずくとも無く去ってしまった。 (本朝武芸小伝)

砲術 稲富流(いなどめりゅう)

稲富一夢斎が創始した大筒の流派。

稲富 一夢斎(いなどめ いちむさい)
詳しくはこちらへ

鳥居 甚左衛門(とりい じんざえもん)
砲術。
鳥居甚左衛門は砲術の達人なり、常に距離を測量する秘書を懐中し、砲を放たんとする時は必らず其秘書に就き、之に由て其の弾射を誤らず、百発百中の名誉を搏したり、其の秘書は彼が秘物中の秘物にて、多くの門人あるも誰一人これが伝授を受くるを得ず、武衛一郎右衛門なる者あり、切に其の伝習を熱望し、鳥居の娘を娶りて婿となり、一意に懇情を尽して彼れが歓心を買ひけるに、鳥居益々其秘を秘し、厠へ行くにも之を懐ろにし、湯殿に入るにも之を携へ、疾で病床に臥すも肌を離さず、漏洩の注意至らざる所なかりければ、武衛の心算全く齟齬して、其失望一方ならざりしが、偶ま鳥居大病に罹りて人事を省ざること数日に亙れり、武衛之れを機とし、朝夕傍らに在りて其病を看護し、且つ窃かに其秘書を偸写せり、已にして鳥居全瘉し、再び射的場に出て門人等の稽古を監査するに、武衛の術著るしく進みて毎も其の命中を誤らず、鳥居大いに之を怪み、若くは我が病中に我が秘法を偸みたるかを詰問す、武衛叩頭して罪を謝し、年来先生の秘法を熱望せしかども其志ざしを果たすを得ず、仍て斯く斯くの隠事を行ひたり、願はくは先生許し玉へ、と有の儘に白状して宥恕を乞ひけるに、鳥居以ての外に気色を損じ、直ちに其場にて破門し、且つ其娘を取戻せり、然れども武衛これに由りて後に一流を創始し、大いに世に行はる、武衛流と称する砲術即ち是れなり(藤田虎之助)(『想古禄』)

馬術 大坪流(おおつぼりゅう)

馬術の流派。

大坪 道全(おおつぼ どうぜん)
大坪流馬術の創始者。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、
○大坪道全は将軍義満公の命を受て、辰の剋に京を乗出し、吉野山の桜を手折て腰の花かごに入て、午の刻迄に往返。二十六里を乗て帰りしは奇代の名人と、御感に預りしとかや。
などと有る。

軍学(ぐんがく)

作戦・軍事を指南する兵法家。

山鹿 素行(やまが そこう)
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中国武術 七星剣(しちせいけん)

中国で発展した剣の武術の一つ。

宗 友軒(そう ゆうけん) 吉原御免状
中国人。武芸者。
王耀臣から伝わる七星剣を呉公玉から受継ぐ。

宗 瘠平(そう せきへい) 吉原御免状
中国人。武芸者。
王耀臣から伝わる七星剣を宗友軒から受継ぐ。

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