剣術流派

剣術流派一覧

主な剣術流派の解説一覧です。我国の剣術流派は、剣術者(兵法家)がそれぞれ自称したり、後世物語作者が名付けた名義などが混在するため有名・無名、真偽不明の物など合わせて何百流もある。ここでは、隆慶作品に登場する流派とその資料に現れる流派を中心に紹介しております。また、資料に基づいた記述を心掛けておりますが、考証を目的とした解説ではありませんので真偽については、各人それぞれの判断に委ねます。

神道流の系統

飯篠山城守家直入道長威斎が伝える剣術流派を祖とする流れ。

天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)

飯篠山城守家直入道長威斎(いいしのやましろのかみいえなおにゅうどうちょういさい)が伝える剣の流派。飯篠は「いいざさ」とも読む。この飯篠山城守の神道流を特に「香取神道流」ともいった。彼の門弟に飯篠四天王と呼ばれた、杉本備前守政元(すぎもとびぜんのかみまさもと)、上泉伊勢守秀綱、諸岡一羽斎、塚原土佐守(つかはらとさのかみ)がいる。上泉伊勢守は後に神陰流を起し、隆慶作品においてもしばしば名前が登場する有名な兵法者。塚原土佐守は佐竹義宣の家臣で、兵法者塚原卜伝の養父。

飯篠 長威斎(いいざさ ちょういさい) (?~1488)
飯篠山城守家直入道長威斎。天真正伝神道流創始者。下総飯篠(現千葉県香取郡多古町)の生まれで、のち丁字村山崎(現千葉県佐原市)に移り住んだ。
ある日、香取神宮の神井を汚した人が即死したのを見て、侵し難い神威に畏敬の念を覚え、神宮境内の梅木山不断所に住み、毎夜神庭に出て記念し、昼は庭前の梅の木に向かって木刀を振るい修行に励むこと一千日余り、ついに剣法の奥義を極めたという。のち、京に上り将軍足利義政に仕え剣法指南を行う。晩年は香取に戻り余生を送った。長享二年(1488)四月十五日没。
飯篠長威斎は下総香取郡飯篠村の生れで香取神宮に参籠して妙をさとり、天真正伝神道流の一派を開いた。これが日本の剣道に流派というものの起った祖ということになっている。(中里介山『日本武術神妙記』)

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一羽流(いちうりゅう)

天真正伝神道流で飯篠四天王と呼ばれた一人諸岡一羽斎(もろおかいちうさい)を開祖とする剣の流派。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に一羽関連の記述あり参照ください。

諸岡 一羽斎(もろおか いちうさい)
一羽流の流祖。
天真正伝神道流飯篠四天王の一人。
『日本武術神妙記』の一羽関連記述参照。

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鹿島神道流(かしましんとうりゅう)

「鹿島流」、「鹿島神流」、「鹿島神陰流」ともいう。「神道流」飯篠山城守の高弟松本備前守政信が伝える流派。松本備前守の創案した「一つの太刀」と呼ばれる秘伝は、「神道流」の弟弟子塚原土佐守に伝えられ、土佐守から塚原卜伝に伝えられた。

松本 尚勝(まつもと なおかつ) 
鹿島神道流の流祖。
松本備前守尚勝(あるいは杉本政信)は常陸の鹿島神宮の祝部(はふり)である、塚原卜伝に伝えた「一の太刀(たち)」もこの人の発明だと云われる、塚原卜伝、上泉秀綱、有馬乾信(ありまけんしん)などは、この人の門人であって、鹿島流というのは世間から見て唱えた名称で、鹿島の神宮の方では別に神流といっていたらしい。(中里介山『日本武術神妙記』)

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新当流(しんとうりゅう)

塚原卜伝を開祖とする剣の流派。卜伝流とも云う。稽古には木太刀か刃引きの本身を使ったとされる。「新当流」とは「天真正伝神道流」の「神道流」からきたとも、「一の太刀」の極意「新たな心境で、万刀に当る」ことから称したともいう。 → 【卜伝流】

【卜伝流】(ぼくでんりゅう)
塚原卜伝を開祖とする剣の流派。「新当流」ともいう。これは「神道流」からきた命名。 → 【新当流】

有馬 大膳(ありま たいぜん) 
貞時。新当流。
家康はまた有馬大膳貞時という新当流の兵法家に就いて剣術を学んでいるが、この有馬大膳貞時という人は山本勘助とも親しい間柄で、当時新当流に於ては有馬の右に出でるものは無かったという評判である、この有馬が、三河へ来ると聞いて家康は早速呼んで対面してその説を聞いて入門し、一カ年三百石の約束で三カ年間修業をして遂に新当流の奥義皆伝を得た、この時家康から青江吉次の刀を大膳に与えたということである。
 有馬大膳はほどなく死んだが、為に新当流の伝統が絶えようとしたので、その流儀の人々は何とかしてその系図を残そうと、大膳の庶孫に当る有馬豊前秋重と云うものを尋ね出して家を継がせることにしたが、この豊前秋重は有馬の家の血統だけを継ぎはしたけれども、まだ剣術は奥義皆伝の位に達していなかったから家元として師範に当るわけには行かぬ、そうしてその時分に新当流の奥義皆伝を受けたものは名実共に家康一人であったから、豊前秋重は家康についてこれを学んで皆伝を受けたのである。
 これをもって見ても家康という人が個人武術家としても当時第一流の大家であったことがよくわかる。(中里介山著『続日本武術神妙記』)

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天真正自顕流(てんしんせいじけんりゅう)

十瀬與三左衛門長宗が飯篠長威斎の「神道流」を学び、独自の工夫を加えて興した剣の流派。薩摩の「示現流」はこの流れを汲む。

流祖は常陸国笠間の住人で清和源氏佐竹氏の一族小瀬与三衛門長宗とされる。流統は小瀬与三衛門長宗→金子新九郎→赤坂弥九郎(後、出家して善吉禅師)、黒川(会津)の天寧寺にいたが戦乱で消失したため京に上り天寧寺を再建。そこで自顕流四世となった。のち、当時瀬戸口藤兵衛と名乗っていた東郷藤兵衛重位と出会う。やがて東郷(瀬戸口)は、島津家久の命により他国に秘するために流派名を音が同じとなる示現流に変えた。と薩摩の伝書にもあるとのこと。この示現流は、東郷藤兵衛重位→石坂牛介→池田杢左衛門→山田杢兵衛→村上善太夫→村上善蔵→村上嘉納→村上義瑞→村上義衛→村上義治と続き、牧野家に仕え示現流を指南していた村上家であったが、延享四年、延岡から笠間に移封になった牧野家に従った村上家によって、笠間にも示現流が伝えられた。(大嶋正和)

上記の文は、示現流についてご教示いただいた大嶋正和氏からのメール文を若干書き直して掲載しております。十瀬與三左衛門長宗と小瀬与三衛門長宗は、同一人物。資料の文字を小と十と読み違えているだけで、一方には小瀬と伝わり、一方には十瀬と伝わっただけであろう。

赤坂 弥九郎(あかさか やくろう)
雅楽助。善吉。天真正自顕流皆伝。天寧寺住職。
鹿島の神官だった弥九郎は、天真正自顕流十瀬長宗から剣を学び、その皆伝を受けたが、人を切り国を出奔。その後、出家して善吉と名乗り、京都天寧寺の住職となった。

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示現流(じげんりゅう)

薩摩藩士東郷藤兵衛重位(しげたか)を祖とする剣の流派。稽古にはユスの木を三尺四寸六分に切った丸棒を用いた。構えは「蜻蛉」の構え一つ。見た目の型にこだわらない実戦向きの剣で、島津藩の剣術として重用され、幕末の薩摩藩士らがこの剣で、幕府軍を圧倒したとされる。東郷藤兵衛重位は「太捨流」を学び、島津義久あるいは義弘の供として上洛した時に、十瀬與三左衛門長宗を祖とする「天真正自顕流」の達人赤坂雅楽助と出合いその門人となり、「自顕流」を修める。国に帰った当初は「自顕流」と称していたが、島津家久に認められてその名を「示現流」と改めた。『柳生非情剣』(33p)には、「自源流」とある。また、直木三十五氏の『岩見重太郎』には、瀬戸口備前守が起した「自源流」があり、「自源という天狗から教えられた云々」とあり、この「示現流」とは別に「自源流」なるものがあったのか、隆氏の「自源流」は「とんぼの構え云々」の記述から「示現流」と同じものと思われる。
また『剣豪伝説』(小島永煕)には「示現流は自源流、慈眼流などとも書き、『本朝武芸小伝』に「瀬戸口備前守は薩摩の人で島津家臣なり。壮年より刀術を好み、精妙を得て、のち、薩州の伊土瀧に赴き、自源坊に遭い妙旨を悟り、ゆえに自源流を号す」とある」とあり、先の直木三十五氏の説と同じである。ともあれ、薩摩藩では藩外不出の流儀とし、維新後も日中戦争まで門外不出であったため、『日本剣道史』(山田次郎吉)でも「自源流は島痔家の臣瀬戸口備前守より起るとあれども、何れも出処事蹟は詳らかでない」とお手上げ状態となっている。示現流の祖東郷重位が瀬戸口氏であるという説もあるが、綿谷雪氏は「瀬戸口氏は大隅国姶羅郡蒲生郷の正八幡若宮社の社家という。薩摩付近に瀬戸口氏があったことは事実であるが、示現流の祖となった東郷肥前守重位が、もと瀬戸口氏であったという説は、確証を欠いている」と述べている。、

東郷 重位(とうごう しげたか)
天正十六年(1588)、主君の供で上京した薩摩有馬家家臣東郷重位が、たまたま天寧寺の隣に住したことから、弥九郎はこの士に天真正自顕流を伝授。こうしてその剣技を伝え受けた重位は、薩摩に戻ると天真正自顕流を広める。重位は、初め「自顕流」と称したが、後に「示現流」と改め、薩摩を代表する流派となった。

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神道無念流(しんとうむねんりゅう)

「無念流」ともいう。天明期(1781〜1789)に上野国の人福井平右衛門が興したとされる剣の流派。平右衛門の愛弟子戸ケ崎(戸賀崎)熊太郎が江戸に道場を開き広めた。清水礫洲の『ありやなしや』によれば、「一刀流」の鈴木斧八郎は、熊太郎と試合をし破れて「無念流」に改流。戸賀崎道場で師範代を勤める。この門人に秋山要助(介)等がいた。岡田十松は鈴木斧八郎の後師範代になったらしい。

秋山 要助(あきやま ようすけ)
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岡田 十松(おかだ じゅうまつ) 狼の眼
神道無念流の戸賀崎道場で、秋山要助の兄弟子だったが、剣の腕は秋山要助よりも劣り、要助がやくざ者と喧嘩したことに付け込み、奸計をもって要助を道場から追い出す。
戸賀崎道場師範代。清水礫洲の書『ありやなしや』に名がある。

斉藤 彌九郎(さいとう やくろう)
神道無念流。
越中氷見郡の生れ。江戸に出て岡田十松に師事。同門に水戸藩士藤田東湖、江川太郎左衛門、渡辺華山などがいたことから、水戸藩士との親交を深めた。二十七歳の時に独立し、飯田町に道場「練兵館」を開く。文政十二年(1829)、水戸九代藩主決定をめぐって斉昭擁立に動く藤田、会沢正志斎らの活動に助力。
斉藤道場の塾頭には桂小五郎がいて、門弟三千人と言われるほどの人気を博した。この門弟の中には、高杉晋作・品川彌二郎・渡辺昇・井上勝などの勤王の志士たちが多くいた。

扶桑念流(ふそうねんりゅう)

武州飯能で秋山要助が起した剣の一流。「無念流」の流れ。

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